③普通の人間関係においては、よほどの特殊な例外を除いて、そう簡単に、「いい人」、「悪い人」、などというような二元論的な物の見方はせずに、わりと並列的な物の見方で、それぞれの人々の個性や才能や能力を、最大限に認めて、付き合うような、多元的な物の見方が、とても大切である
第三には、これは、社会の中で、時々、非常に問題を巻き起こすことのある内容になってしまうのですが、その社会の中で、「みんなで、一緒に暮らしている社会なんだから、これだけは、やってもらうと困るので、どうしても、何らかの罰則が必要かな」、とか、「こういう立派なことをする人には、やはり、それなりの報酬や名誉とか、みんなの賞賛が必要だね」、というような部分に関しては、前に述べたような形の、一種の二元論的な対応でもって、「ちょっと、これは困るな・・・」、というような行為には、それなりの罰則を設けたり、あるいは、「これは、偉いな」、というような行為には、それなりの賞賛や報酬があって、しかるべきなのではないか、と私は思うのですが、ただ、それ以外の基本的な人間関係においては、「あいつは、馬鹿だから」、「下の身分だから」、とか、「あいつは、優等生だから」、「貴族だから」、などというような形で、人間同士を、お互いに、上下に割ってゆくような、二元論的な物の見方というのは、あまり、そぐわないようなところがあるのです。
ですから、基本的な人間関係においては、そうした特殊なケースを除いて、よくある宗教的、道徳的な見方のように、「この人は、善人で、この人は、悪人」、というような見方ではなくて、「この人の性格は、こんな感じで、得意なことは、これだけど、不得意なことは、これで、それから、性格の癖で、ちょっと、こんな変わったところがある」、などというような具合に、わりとフラットな物の見方を心掛けながら、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん・・・、などという具合に、それぞれの人々の良い点を最大に引き出しながら、お付き合いするようにしていかないと、自分自身の人間性の視野や器量というものを、非常に狭くしてしまうのではないか、ということなのです。
ですから、基本的な人間関係に関しては、よほどの迷惑なことや、その反対の、特別な賞賛に値するような良いことは、別としても、それ以外のことに関しては、できるだけ多くの人々の、それぞれの良さを、お互いに最大限に認め合いながら、お付き合いしてゆくような、並列的な多元論的な人間関係の方が、自分自身の人生を、より豊かに幸福にしてゆけるのではないか、というような感想を、私は持っております。
追伸
先々日の文章で、仏教だと、よく「苦楽中道」というので、その言葉をそのまま載せていたのですが、後から、よく考えてみると、昔なら分からないでもないのですが、アセンション進行中の、現代のような時代だと、「苦しすぎず、楽しすぎず」ともとれないでもないので、これは、ちょっと、私の反対している、「それほど不幸ではないけれども、それほど幸福であるというほどでもない、わりと機械的で、無感覚な、『真面目教』の世界みたいだな・・・」、と思ったので、少し文章を改めて、単なる行き過ぎを戒めた、行為としての中道というような説明に変えました。
Cecye(セスィエ)