昔と違って、近現代では、たいていのキリスト教の人々は、「ここまでは、清い宗教生活、だけど、ここからは、普通の現実の生活」という具合に、実質的に、ダブル・スタンダードの立場をとるようになってきている
そんな裏の国家や宗教の事情なんて、全く知らない多くの人々の思惑をよそに、何十年、何百年というような長い歴史の中で、こうした状況が、何度も何度も繰り返されてゆくと、その後、いったい、どのような宗教事情になってゆくのか、というと、大まかに言うと、こんな感じになってきます。
たいてい、多くのキリスト教徒の人々は、若い時から、素晴らしい理想を胸に、一生を、その宗教の中で生きてゆくことを、徹底的に推奨されるような宗教教育を受けることになるのですが、そうして、ある程度の年頃になると、親が決めた、とか、お互いに恋に落ちた、というような理由で、やがて、二人の男女が結ばれて、結婚すると、「この結婚は、神に祝福されていて、セックスも妊娠出産も、神の意思である」、というような教会の教えがあるので、そのうち、そうして結婚した二人の男女のもとには、一人、二人と、可愛い子供が産まれてゆくことになります。
ところが、この後が、少しややこしくて、そうは言われても、それぞれの家庭ごとに、経済的事情や、それ以外の、いろいろな人間的な事情があるので、そのうち、「そんな妊娠するたびに、全部、子供を産んでいったら、大変なことになる」、ということに、そうした若い男女は気付くことになるのですが、そこからが、ややこしくて、この段階になると、一昔前の時代のように、宗教と国家が、かなり密接に結びついていた社会の状況とは全く違って、近現代の社会というのは、「宗教は、宗教」、それから、「国家は、国家」、という具合に、宗教と政治を、かなり明確に色分けするようになってきているので、たとえ、キリスト教徒であっても、たいていの人は、「ここまでは、教会の言う通りに従ってもいいけれども、ここからは、いくら何でも無理よ!」、とばかりに、表向きの建前と、裏の本音を、かなりきっちりと色分けして、「ここまでは、清い宗教生活、だけど、ここからは、普通の現実の生活」、という具合に、だんだん、うまく、その時々で、ダブル・スタンダードの立場をとるのが、非常にうまくなってゆくものなのです。
Cecye(セスィエ)
2012年2月8日 9:04 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観