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政治の混乱の根本的な原因は、何のことはない、学校時代における、多くの人々へのしつけと刷り込みにある Part 6

もし、学校が、現在以上に、より自由で、オープンで、学校と社会の間の垣根の少ない、実学重視の、それぞれの個人の満足や幸福重視の運営をするようになるなら、それに伴って、国や地域全体も、より自由で、オープンで、一体感のある、より楽しい、幸福な社会に大変化してゆくはずである

 それでは、これとは反対に、もし、多くの人々が、日本の政治を画期的に良くするような、自分達を取り囲む世界のイメージ、というか、先入概念を持つような、良い意味での、多くの人々へのしつけと刷り込みがあるような学校運営とは、一体、どのようなものが考えられるのか、というと、大体、以下のような七つの内容になります。

1、まず第一には、これは、単純明快、先ほどとは、全く正反対に、原則、よほどの特別な事情でもない限りは、教師でも、クラスでも、学校でも、自分の自由に選べる、というような学校運営になっていれば、そうした学校で学んだ子供達が、大きくなった際には、その時々の状況に応じて、政治家や役人は、最も適切な有能な人物を、随時、選んでゆくのが、一番、良いと考えると同時に、それで、何か問題が起きれば、そのたびに、すぐに組織全体を、素早く、より合理的なものに手直ししてゆくような、非常に柔軟で、無理のない、効率的な、国づくりをしてゆけるようになるのではないか、ということになります。

2、第二には、現在のように、教師と学生(生徒)が、立場的に、かなり上下の差があるような学校運営を止めて(信じがたいことに、日本の法律では、教師の特別な身分を認めています?)、教師も、学生も、わりとフラットな平等な人間関係を結べるような学校運営にすれば、そうした学校で学んだ子供達が、大きくなった際には、政治家や役人のような人々を特別視して、いろいろな問題を、いつまでも放ったらかしにしたりせずに、わりと、すぐに手早く対応して、細かな変更や改善を加えるようになるはずなので、多分、国全体が、もっと風通しの良い、気楽な、住みやすい世の中に変わってゆくのではないか、と思われます。

3、第三には、教育の原点に戻って、学校というのは、その社会で、一人前の市民としての仕事や生活ができるための実学を、子供達に身に付けさせる、というような本来の目標に戻るのであれば、現在のように、教師が、学生(「学生」、「生徒」、「児童」、何で、こんなに、たくさん呼び方が必要なのでしょうか?)に対して、一方的に成績をつける通信簿というのは、全く不必要になるはずなので、おそらく、そうした学校で学んだ子供達が、大きくなった際には、現在以上に、一人一人の人間が、もっともっとフレンドリーで、仲の良い、まるで一つの調和した家族のような共同体が築けるようになるのではないか、と私は思います(一人一人の学生にテストをして、通信簿を付けると、一人一人の子供が、途端に、お互いに比べられ、競争し合う存在になってしまうので、表向きの形は、どうあれ、精神的には、全く分断された、バラバラの存在になってしまいます)。

4、もし、学生や、その両親が、自分達が,主体的に、教師を選んだり、学校運営の仕方を、ある程度、自主的に決められるようにしてあるのであれば、多分、そうした学校で学んだ子供達が、大きくなった際には、国や地域の政治というのは、「みんなで協力して、動かすのが当たり前」、とか、「別に国や地域を変えたければ、みんなで選んで、指導者を変えれば、簡単に変わるのが、当たり前」、というような、わりと健全な民主的な価値観や世界観を持った、現在以上に幸福な世界になってゆくはずです。

5、第五には、学習する科目やスポーツや専門分野などを、自分の好きなように、わりと自由に選べるような学校運営になっていれば、多分、そうした学校で学んだ子供達が大きくなった際には、「いつからでも、自分が好きなこと、やりたいことに、積極的に取り組んで、新しい人生を始めてゆけるのが、人生だ」、とか、「自分が、そうであったように、若い人達にも、自分のできる範囲で、自分の得意なことを、いろいろ教えてあげて、伸ばしてゆこう」、というような、もっともっと自由で、明るく、伸び伸びした、みんなで助け合うような、世の中になってゆくのではないか、ということです。

6、第六には、子供の時から、自分が、将来、働く仕事や生活のことを知ったり、そのための具体的な知識やスキルを学べるような学校運営になっていれば、おそらく、そうした子供達が、大きくなった際には、現在のように、「学校は、ものすごく甘い生活を許すのに、社会に出た途端に、ものすごく厳しい風当たりが来て、就職しても、いつまで経っても、自分の人生の意義を見いだせない」、とか、「それどころか、自分を受け入れてくれる、ろくな就職先すら見つからない」、というような社会の状況にはならずに、「もう学生のうちから、社会に参加して、自分の好きな仕事やボランティアのようなことを始めているので、学習と仕事の間の垣根が、ほとんど感じられなかった」、とか、「たくさんの仕事の中でも、自分に最も合った、自分が最も楽しいと思えるような、まるで天職のような仕事に、しっかりとついて、ものすごく充実した幸せな人生を送れた」、というような世の中になってゆくのではないか、ということなのです。

7、第七には、もし、学校運営が、現在のように、国家の秩序や決まり重視、形式や奴隷的拘束重視ではなくて、一人一人の、本当の心からの満足や幸福重視の運営を行うようになっていれば、そうした子供達が、大きくなった際には、現在の日本のように、「大変な問題は、隠して、先送りすればいい」、とか、「とにかく、何とか偉くなれたら、その地位や権力を利用して、みんなに分からないような、お金儲けや贅沢を、精一杯満喫しよう」、なんて、変な不幸な精神状態にはならずに、「できるだけ、多くの人々と、みんなが、本当に心の底から、満足し、幸せになれるような世の中にしてゆこう」、とか、「人を縛ったり、言うことを聞かせても、何も楽しくないので、そんなことよりも、それぞれの人が、できるだけ自由に、明るく、一番、楽しいことをしながら、それを、できるだけ、大勢の人達で、一緒に仲良く共有できるような、最高にハッピーな世界を作ってゆこう」、というような、いわゆる、民主主義の理想通りの、多くの人々の最大幸福が実現できるような世界になってゆくのではないか、ということなのです。

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月14日 9:27 PM, コラム / 政治 / 教育



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