2、日本の学校では、どんなに素晴らしい、自分達の代表みたいな人間をリーダーに選んでも、結局、その人達は、昔からの偉い存在である教師の助手や子分みたいな立場に押しやられるだけで、肝心要の学校自体は、何も変わらない、絶対に変えられない、というような、子供へのしつけや刷り込みが、かなり強烈に行われることが多いのだが、これは、何のことはない、ここ数十年の日本の政治情勢の姿そのものなのではないか
第二には、これも、そうした学校教育が災いしているとしか、全く言いようがないのですが、日本の学校であると、民主主義の基礎を教えるために、学級委員や係というのを、クラスの子供の間で選出させるのですが、この学級委員というのは、よく考えてみると、何のことはない、教師の助手、もしくは、教師の部下のような立場に過ぎない、ということなのです。
これは、学校の生徒の代表である生徒会長や役員に関しても、ほとんど同じなのですが、彼らは、たとえ、何をやろうと思ったとしても、結局、教師がOKと言えば、良いけれども、ダメと言われたら、原則、すべてダメ、というように、なんだかんだ言って、そうした生徒会長や役員という仕事は、言ってみれば、生徒の代表というよりも、単なる教師の助手、もしくは、教師の子分のような仕事しか、原則、何もできないようになっている、ということなのです。
つまり、これによる、しつけと刷り込みは、こんな感じになります。 「いくら、みんなで、代表になる人間を選んでも、結局、その代表の人間は、その上の立場の人達の下で、いろいろな指示や指導を受ける人間に過ぎない」、とか、「いくら、みんなで、新しいことをしたい人間を選んだとしても、また、どんな勉強のできる、やる気のある人間を選んだとしても、結局、学校自体は、全然、変わらない」、というような、しつけと刷り込み、というか、思い込みになるのではないか、と思われるのですが、これは、まさしく、ここ数十年の間、ずっと、日本が置かれていた政治情勢そのものなのではないか、ということなのです。
つまり、ここ数十年の日本の政治においては、「みんなで一生懸命、政治家を選んだけれども、結局、何も変えられなかった」、とか、「政治の世界を一新しようと、たくさんの若手の政治家を、国会に送り込んでも、古い権力者や役人の前では、子供扱いされて、全く何も変わらなかった」、みたいなことが、たくさん起きてきたわけなのですが、それもこれも、元をたどると、何のことはない、多くの人々が、散々体験した、日本の学校運営による、しつけと刷り込みが、その根っこにあるのではないか、ということなのです。
※例えば、学校の教師が、あまりにも授業が下手で、どうしようもない学校運営が行われているような状況においては、そうした教室の子供達や、その父母が、みんなで話し合ったり、提案することによって、わりと簡単に、そうした教師のやり方の改善や、あるいは、教師の交代や、学校運営そのものの変更ができるような、もっと柔軟な教育システムになっている場合には、多分、そうした国や地域に住む人々は、その国や地域の政治に関しても、ほぼ同じように、「みんなで普通に話し合ったり、提案したりすれば、どんなに政治状況でも、わりと簡単に変えられるのが、民主主義なら当たり前」、というような、現在よりも、ずっと健全で、クリーンな政治観を持つようになるのではないか、ということなのです。
それが、現在の日本のような政治状況であると、たとえ、たくさんの人々が、いろいろな意見を言ったとしても、心の中では、「でも、結局、何も変わらないんだろう」、とか、「お前達、何も、やる気がないんだろう」、などと考えていることが多いし、また、そうした意見を聞いている側も、表向きは、頭を下げたり、話を聞いている振りをしていることは多いのですが、ところが、心の中では、「そんなこと言われても、そんなもの変えられるわけないじゃないか」、とか、「自分が、ここで話を聞いているだけで、ありがたいと思ってもらわないと困るのに、その上、あれをやれ、これをやれ、と言われても、できるわけないだろう」、みたいな精神的な押し問答が行われるだけで、実際には、そうした話し合いの後にも、よほどの譲歩がない限りは、なかなか、何も変わらないことが多いのですが、それもこれも、元をたどると、今述べたような、多くの人々への学校時代のしつけと刷り込みに、その根本原因があるのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)