今回は、前に少し書いていたマスメディアについての話の続きです。
テレビも新聞も、基本的には多くの人々に対して、アッと驚く新情報を提供し、それによって対価を得る瓦版(かわらばん)に過ぎない、ということを絶対に忘れてはいけない
これはよく考えてみれば、誰でもよく分かるような内容なのではないかと私は思うのですが、テレビにしても新聞にしても、あるいは、それ以外のいかなるメディアであったとしても、基本的には多くの人々が、これまで全く知らなかったような、アッと驚くような新情報を教えて、それによって幾らかのお金を稼いでいる、言ってみれば、一昔前の「瓦版(かわらばん)」とほとんど同じような業態の仕事であるということです。
それでは、マスコミの本質が、こうした一昔前の瓦版とほとんど同じであるということに気付くと、いったい何が分かるのかというと、だいたい以下のような四つの内容になります。
1、どのメディアも厳しい自由競争にさらされているので、常にみんなが、アッと驚くような新情報を提供し続けられないと、そこで働く人々に給料が払えなくなってしまう
まず第一には、どのメディアも、常に他のメディアとの厳しい自由競争にさらされているので、とにかく、その時点において他のメディアと比べて、多くの人々が、アッと驚くような新情報を提供し続けられないと、そのメディアで働く多くの人々の給料が払えなくなってしまうということです。
2、どのメディアも、そこで働く人々の経済的豊かさや生活の安定のために、常に多くの人々が、そのメディアを見続けるような毎日の生活習慣を付けようとするようになってゆく
第二には、そうすると、どのメディアも、そうしたメディアで働く人々が、より豊かに安心して、安定した生活を送れるように、できるだけ多くの人々が毎日、まるで生活習慣のように、そうした同じお気に入りのメディアをチェックするような習慣付けを必ず行おうとするようになってゆくということです(例としては、毎日の新聞や、テレビの定時のニュースやドラマなどがあげられます)。
3、たいていのメディアは、その社会で権威や信用のある強い後ろ盾やバックアップを得るようになってゆくが、その結果、だんだん多くの人々の利益よりも、そうした一握りの支配階層の人々の意見や目論み(もくろみ)を優先して報道するようになってゆきやすい
第三には、ところが情報の質や信頼度が低いと、だんだん、みんな馬鹿にして、そうしたメディアを見たり、見なかったりするような状況になってゆくので(日本だと、いわゆる雑誌や日刊のスポーツ新聞みたいな位置づけでしょうか)、そうしたメディアというのは、どこかの段階で必ず、そこそこその社会で権威や信用があるような宗教や国家であるとか、あるいは大企業や大学や研究所などの非常に強力な後ろ盾やバックアップを得るようになってゆくはずなのです。
ところが、これは本当は一般の人々から見ると、ほぼ完全な裏切り行為に当たるのですが、こうしたメディアの業態になっていると、だんだん何か発表する際には、大多数の普通の人々の利益よりも、そうしたその社会で権威や信用を持っている、言わば一握りの支配階層に当たるような人々の意見や目論みを優先して発表するような仕事のあり方に、どうしてもなってゆきやすいということなのです。
Cecye(セスィエ)