8、物理学的には、何億年もの間、月がほぼ正円に近い軌道で地球の周りを同じように回り続けることは、ほぼ不可能なはずなのに、いまだに一度も月は地球に衝突したことがない
第八には、これも本当に非常に不思議な話なのですが、多分、天文学と物理学の知識を総動員して調査し、計算してみた場合、あの地球のすぐ側に浮かんでいる「月」という衛星は、あの大きさ(地球の直径の4分の1)で、あの場所に何億年も安定した状態で、ほぼ丸い軌道のまま地球の周りを回り続けることは絶対に不可能なはずで、そうではなく、本当はどこかの段階で、いつ地球と衝突してもおかしくないような状況であったはずなのですが、ところが、いまだにそうした事態には全くなっていないということです。
ですから、もし月が、あのような形で常にほぼ地球と同じような距離の正円を描くように今日も回り続けているとしたら、それは人類以上の何かものすごい存在がいることの何よりの証拠なのではないか、と私は素朴に感じております。
9、現在、地球に多種多様な生命が生存し続けていること自体が、自然の偶然の産物とは全く思えないようなものすごい奇蹟であり、そして、それが人間を超えた何か偉大な創造主的存在がいることの何よりもの絶対証明になっているはずである
第九には、これも考えてみると非常に不思議なことであるのですが、多分、完全に科学的に調べ上げた場合、その辺の石ころや泥や水を材料にして偶然の結果、突然、生命が誕生するなんて全くあり得ないはずなのに、現在の地球には、これほど豊かにたくさんの生物が生存しているということは、この具体的な事実だけで創造主、もしくは、それに近い何らかの偉大な存在がいることはほぼ間違いない、というように判断してよいのではないかというように私は考えております。
これは現在の日本だと学校で多くの人々に、さも当然の結果、もしくは、さも当然の科学的な常識のように教え込もうとするような最もインチキの嘘の内容なのではないかと私は率直に思うのですが、どう考えてみても、その辺の石ころや泥や水を材料にして、それらをただ放ったらかしにして何億年も置いておけば、何かの偶然の結果、こんなに複雑で難しい生命システムを持っている生命が誕生し、さらにそれを何億年も放っておくと、それがどんどん勝手に進化して、現在の人間や動植物のような超複雑でデリケートな生命存在になるはずだなんて、私はその辺の新興宗教よりも、もっともっと遥かにいい加減でインチキの盲信、過信のような未開の原始人の考える戯言(たわごと)のような話なのではないか、というように率直に感じております。
10、この地球に、この宇宙に人間という生命が存在すること自体が、創造主である「神」が存在している最大の証明である
第十には、これは少しロマンチックというか、少し感傷的な話になるのですが、この宇宙を眺めてみると、夜空には、本当に無限と言ってもよいほどのたくさんの星々が光り輝いているわけですが、そうした無限に近い数の星々のうち、なぜ現在の地球には、これほどたくさんの人間や動植物達がいて、そして、これほど豊かに繁栄し続けているのか、そして、この先、未来には一体どうなってゆくのか、ということを考えてゆくと、これは私の素直な感想なのですが、多分、神のような存在がいたとするなら、次のような三つの願いを現在の人類に対して直接託されているからなのではないか、と強く確信するのです。
1、なぜかはよく分からないが、人間は、とかく愚かで間違いやすい存在だが、そうした愚かさや間違いを乗り越えて、少しでもより賢い、より愛深い存在にならなくてはならない、ということ。
2、なぜかはよく分からないが、人間は、とにかく知りたがり屋、やりたがり屋で、いろいろな間違いや失敗を犯すことを自分自身でよく分かっていたとしても、とにかく何もかも分かるようになってみたいし、また、できれば何もかも自分自身の身で体験して知ってみたい、というような馬鹿な衝動に駆られる、ちょっと愚かな性分がある、ということ。
3、そして、やっぱり、なぜかはよく分からないが、人間というのは、たとえどんなに失敗し、傷つき苦しみ、悲しみの底に沈むような大変な状況に陥ったとしても、それでも倒れても立ち上がり、苦しんでも歯を食いしばって絶え抜き、どんなに辛くても、愛する人のために何かをしたい、何かを成し遂げたいと考え、そして何も出来なくても、絶対に何かできるはずだと考えて、たとえ千回、万回失敗したとしても、何度でも何度でも、いつまでも挑戦し続けようとする生き物である、ということです。
だから、私は思うのですが、この宇宙において人間という生き物が、たとえどんなに愚かで醜く最低の生き物のように見えたとしても、多分、神が、この宇宙で最も愛された存在は人間だったのだ、と信じたいと私は思うし、多分、きっとそうなのだと思う、ということです。
Cecye(セスィエ)