③あまりにも宗教的修行に明け暮れるような生活ばかりしていると、かえって、本当の霊界や神仏のことが分からなくなってしまうことがある
第三には、一般に「修行」と呼ばれるような内容になるのですが、これも結構、いろいろ問題があることが多くて、例えば、外部の人間から見ると肉体的にはかなり厳しく、きつい行為なのではないか、と思われるような「修行」と称する内容が、あちこちの宗教で行われていることが多いのですが、しかしながら私が見る限り、こうした「宗教的修行」と称する内容であっても、次のような三つの内容に関しては、はっきり言って、ほとんど単なる自己満足や、他の人々を驚かすための宗教パフォーマンスに過ぎないのではないか、ということなのです。
それでは、それは一体、どのような内容なのか、というと、まず第一には、確かにそうした宗教の中において、さまざまな清掃活動や農作業や手作業や雑務のような仕事をすることは、いっけん宗教的な徳を積めたり、あるいは、そうした宗教を成り立たせるためのお金を得ることには、非常に貢献するかもしれないのですが、ただ現実のそうした作業の様子を見る限り、それは、はっきり言って宗教的修行というよりも、普通の人々が行っている単なる労働とあまり違いがないのではないか、ということです。
第二には、そうした宗教の教典を一生懸命、声に出して読んだり、歌ったりするような「修行」と称する行為があることが多いのですが、これも、はっきり言って申し訳ないのですが、確かにそうした行為をすることによって、その行為に参加している人々の気分が非常にすっきりしたり、非常に高揚するような精神的効果があることは、私も十分に認めるのですが、しかしながら世の中には、それとほとんど同じような精神的効果が得られるような行為というのは、他にも幾らでもあるので、それゆえ端から見る限り、そうした行為が、本当にその人達自身の霊性を高めているかどうかということに関しては、よくよく考えてみると、かなり怪しいのではないか、ということです。
第三には、これも、よくよく考えてみると非常に不思議なことであるのですが、そうした宗教の中には、お祭りの時とか、特別な機会があると、ちょっと普通の人には、決して、そう簡単には真似できないような非常に危険な荒行のような行為や、あるいは、ちょっと不思議な奇蹟のようなものを見せたり、行ったりすることが非常に多いのですが、しかしながら、よく考えてみると、たとえ多くの人々の人目を引くような派手な荒行や奇蹟のようなものができたとしても、それと宗教的な悟りとか、真実の証明とか、多くの人々の幸せというものとは全く直結しないので、それゆえ、これは、はっきり言って申し訳ないのですが、本当は、そうした派手な荒行や奇蹟のような行為というのは、「自分は、普通の人には決して出来ないような特別なことができるようになった」とか、「このものすごい奇蹟のパフォーマンスを見た人は、ぜひとも私達に何らかの金銭的援助をしてください」というような単なる自己満足や、あるいは、他の人々の尊敬や援助を得るためのパフォーマンスに過ぎないのではないか、というのが私の率直な感想なのです。
ですから、もっとはっきり言うと、一昔前のように宗教が、ものすごく社会の中で幅を利かせていたような時代ならともかくとして、現代のような時代なら、他の人から抜きん出た何かが出来るような人物になりたいなら、何も宗教の世界でなくても、それ以外に幾らでも、いろいろな選択肢があるし、また、何もそんなに危険な人目を引くような荒行や奇蹟のような行為をしなくても、それ以外に幾らでも他の人々のために役立ち、かつ、その人自身も精神的な満足感が十分に得られるような仕事というのは、現代なら幾らでもあるのではないか、というのが私の感想なのです。
このように、これは、よく考えてみないと非常に分かりづらいのですが、これまでの宗教における「修行」と呼ばれるような行為の中には、よく考えてみると、それは本当は宗教的な行為なのではなく、単なる自己満足や、あるいは、他の人々を驚かすためのパフォーマンスに過ぎないのではないか、と思われるような内容がたくさんあったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2010年12月23日 9:26 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳