今回も、試験の話になるのですが、前回同様、少し変わった話になります。
現在の試験制度は、一般大衆が、直接、選んだわけでもないような少数の人々が、大多数の一般大衆を、ほぼ一方的に、ふるい分けることができる、という点において、「独裁政治」と非常によく似た性質を持った運営形態になっている
今回、述べることは、なぜか、どんなに高名な学者も宗教家も、それから政治家や経営者も、ほとんど指摘しないような、まるで知識の空白、あるいは、思想の空白になっている、と言ってもよいような、非常に不思議な論点になってくるのですが、ここまで、さまざまな角度から述べてきたことからも、よく分かるように、実は、現在、地球の主だった国々で実施されている「試験」というのは、これは、確かに、学校とか、一部の専門分野に限られた、非常に小さな世界における出来事ではあるのですが、しかしながら、一般市民が、直接、選んだわけでもないような、ほんの一握りの選ばれたエリートのような人達が、大多数の普通の一般市民に対して、一方的に、問題を出しては、一方的に、その合否をふるい分け、その上、原則、その結果に対しても、何の反論も文句も言わせない、というような点において、はっきり言うと、多くの一般大衆が、直接、参加して、政治を行うような民主制とは、ほぼ完全に、対極の、ほんの一握りの選ばれた人々による完全独占運営、もしくは、完全支配体制というものを実現していることから、政治的な視点から見ると、みなさんが、大嫌いな、ほとんど「独裁政治」のような性質を、非常に帯びた運営形態になっていることが、非常に多い、ということなのです。
つまり、もっと簡単に言うと、現在の地球における主だった試験の内容というのは、まず第一には、そうした試験を実施する人々を、一般大衆が、直接、選んだわけではない、ということと、第二には、そうした試験の問題も、どこの誰とも、よく分からないような人達によって、勝手に、内容が決められ、そして、出題されている、ということと、それから、第三には、そうした試験の採点や合否に関しても、たいていの場合、どこの誰とも、よく分からないような人達が、その人達の基準で、勝手に採点しているだけでなく、その上、もし、万が一、そうした採点に、不正や間違いがあったとしても、その試験を受けている大多数の人達からは、原則、何の外部的なチェックも批判も行えないようになっている、ということと、それから、第四には、そもそも、そうした試験を行うことの意義や、そうした試験に合格した後の、その資格や免許の有効性自体に関しても、普通の一般市民が、全く、その議論や決定に参加できないようになっている、というような点において、はっきり言って、これは、確かに国家規模というほど、大きな規模ではないにしても、少人数の人々の独断と特権が、いくらでも許されるような、典型的な密室政治以外の何者でもない、ということなのです。
追伸
また、再び、試験の話になってしまっているのですが、はっきり言って、人気取りのためなら、こんな話を書き続ける馬鹿は、どこにもいないのではないか、と私も思うのですが、にも関わらず、なぜ、こうした試験自体の問題について、何度も、詳しく書き続けなくてはならないのか、というと、実は、こうした試験信仰のようなものがあると、まずは、確実に、隠れた特権階級みたいな人間が、その社会の中に出てきて、これが、必ず、例の闇の勢力の管理下に置かれるようになるからなのです。
その理由は、人間というのは、「他人にバレたら、おしまいだ」、というような秘密ができると、そうした秘密を、いくらでも知ることができるような悪意を持った存在から、さまざまな利益誘導や、執拗な脅迫を受けた場合、ほぼ確実に、そうした存在の手下にさせられてしまうからです。
それと、これは、かなり後に書く予定ですが、はっきり言って、試験信仰が強い国や地域は、ほぼ確実に、アセンションせずに、次元低下して、暗闇の領域に落ちてしまうことが、現在の段階で、ほぼ確定しているからです。
その理由は、試験制度というのが、人間同士の意識の分裂を、非常に促進すると同時に、一人一人の人間に対しても、かなり強く制限された意識を作り出す、というようなマイナスの働きを持っているからです。
それと、もう一つ問題なのは、霊的に見た場合、現在の試験制度のような形での試験を受けさせられると、人間というのは、そうした試験を実施した側の人間から、それ以降、かなり強力な霊的な呪縛、というか、本人としては、全く思いもよらないような、無意識での思考や行動上の制約を受けることが多い、ということが、その理由になります。
これは、客観的に見れば、誰でも分かると思うのですが、世界中、見回してみると、試験制度が、きっちりしている国ほど、これは、はっきり言って、悪いのですが、その国の人々の発想が、平凡で、貧困だったり、あと、客観的に見る限り、結構、無表情で、不幸そうな表情をしている国民が多いのではないか、というような印象を、私は、受けています。
こうした理由から、これ以降も、まだ、もう少し書きたいことがあるので、あと、何回か、試験自体の問題について、書いてみたいと思います。
Cecye(セスィエ)
2010年12月8日 9:17 PM, 教育