長いこと時間論の話が続いて、私も飽きてきたので、今回から、ちょっと別の話に変えます。
現在、地球人が非常に強く受け入れさせられ、信じ込まされている価値観や世界観の一つとして、「常に物事には、ただ一つの正解しかない」とか、「神の教えは、ただ一つである」とか、「科学的な真理というのは一つしかない」などというような考え方があるのですが、これは人間の考え方をかなり狭く限定して不自由にすると同時に、場合によっては非常に不幸に陥れてしまうような一種の迷信、もしくは、単なる人間の思い込みに過ぎないような考え方なのではないかと私は感じています。
これは多分、多くの人々が、人生の最初の十数年という人間にとって非常に大事な人間形成期の間、学校において、「答えは、常にただ一つだけしかなくて、合ってる人は○、間違っている人は×で、そして、その評価をつけるのは自分ではなく、自分の上の立場の○○先生だけで、その評価には、絶対に誰も文句も言えずに一方的に受け入れるしかない」というような多分、未来の地球人、もしくは高次元の進んだ文明の人々の目から見た場合には、人間的にかなり不当な形でもって一方的に従順性を強いられ続けるような体験というのをあまりにも多く体験させられ過ぎたからではないか、というように私は考えているのですが、ところが実社会に出てみると、こうした学校生活の時代とは違って、たいてい、次のような三つの状況に直面することが非常に多いのです。
1、何も考えずに同じワンパターンのことしか出来ない人間は、仕事で馬鹿にされるばかりか、家庭でも、やっぱりうまく家事ができなくなってしまうことが多い
まず第一には、これは実社会に出て働いた経験のある人なら、誰でもよく分かるような内容なのではないかと私は思うのですが、こうした学校方式(もっと正確に言うと「学校教」かな?)のように「絶対に正しい答えは一つで、目上の人が自分の絶対命令者」というような考え方で仕事や家事をこなそうとしていると、たいてい「お前は融通が効かない」とか、「積極性がない」とか、「もっと頭を使え」などと散々馬鹿にされて、その結果、結局、根本的な自己改革を迫られることが多いのですが、私は、はっきり言って、そんなことなら学校時代の最初から「もっと何事にも柔軟に対処できる」とか、「ただ一つの誰でも考えつきそうな、ありきたりの答えではなく、それ以外の全く別の答えを考えさせてみる」というような創造的な訓練を積ませてくれれば、その方が、よっぽど社会に出てから役に立つような教育になったのではないか、というように率直に感じています。
2、結局、社会では、学校で教えられたことは、ほとんど役に立たなくて、常にゼロから勉強し直すとか、自分の頭で考えて最善の結論を出すということの繰り返しになることが多い
第二には、これも多分、今の時代には、誰もが経験した内容なのではないかと私は思うのですが、結局、学校で勉強したことは、社会に出るとほとんど役に立たないことが多いので、その結果、どんな人でも会社に入ってからとか、何かの仕事を始めてから一生懸命、その世界の知識やスキルというのを一から勉強し直すようになることが多いのですが、そうすると、はっきり気がつくのは、あれほど学校では、「正しい答えは一つ」とか、「自分の上には偉い人がいる」とか、「自分は一方的に誰かに評価される」などと教えられ続けてきたのに、実際の仕事や家事では、「考え方もやり方もたくさんあることが多いので、いつもどれにするか迷ってしまう」とか、「自分の上司みたいな人はいても、結局、仕事でも家事でも自分が好きに決めてよいような所は山ほどある」とか、「意外と普通の生活では、自分は評価される側というよりも、商品を買う時でも何かを選ぶ時でも、自分が評価する側に立つことの方が遥かに多い」などというように、はっきり言って、学校の生徒の時とは、ほとんど正反対の立場に立たされることの方が、実際の社会では遥かに多いということなのです。
追伸
時間の話は、まだまだ言いたいことは、いっぱいあったのですが、そろそろ私自身が飽きてきたので、今回から少し学校の話に変えたいと思います。
これって一言で言うと、たくさんの人達に、ほぼ半強制的に一つの価値観を教え込む「学校教」と言ってもよいような一種の宗教みたいな要素があるんです。
何でもそうですが、この学校についても、良いところと悪いところがあるので、別に霊的とか、宇宙的と言うまでもなく、普通、ちょっと頭を使って考えたり、実際の状況を見てみたら、こういうことが言えるのではないかというようなことについて、今回から何回かに渡って述べてみたいと思います。
Cecye(セスィエ)