Light Symbol

自由に生きる幸福と、従順に生きる幸福のバランスの大切さについて Part 2

古代や中世の時代の「従順さの幸福観」の世界から、近代以降は、「自由の幸福観」の世界に変わっていった

 こうした観点で、人類の歴史を見てみると、大体、古代から中世の時代にかけては、宗教や政治を中心に、世界中、どこもかしこも、服従や従順さの価値や幸福観というのが、全世界を支配してきた、ということになるのですが、それが、時代が変わって、近現代に入ると、そうした古い服従や従順さの価値や幸福観を強調していた支配勢力が、だんだん一掃されてゆき、その後、自由や平等を中心とした民主主義の時代に移り変わってゆくことになったのですが、ところが、ここで問題なのは、いくら政治的、あるいは、制度的に、自由中心の世界に変わったとしても、肝心の人間そのものの性質というのは、いくら時代が変わっても、そう簡単に、ころころ変わるものではないので、それゆえ、そうした民主主義の時代に移り変わると、人間というのは、一体、どのような行動をするようになったのか、というと、多くの人々は、自分自身にとって、あまりに手に余り過ぎるほどの自由に関しては、自主的に返還し、制限するような非常に不思議な行動を始めるようになっていったのですが、その結果、現れてきたのが、実は、近現代の非常に強力な独裁者が牛耳る独裁国や全体主義国家であったり、あるいは、古い伝統宗教の復興やカルト宗教の勃興であったりしたのです。

 これらは、言っていることや、やっていることは、一見、全く違うのですが、要は、それぞれの人間の自由性というものを、一定の限度内に制限することによって、誰か、より優れた人物や聖人と呼ばれるような人の下で、自主的に素直に従順に服従しながら、自分達の社会の安定や心の平和を見い出してゆこう、というような考え方であるのですが、ただ、ここで問題なのは、たいていの場合、そうした指導者というのが、これは、近現代の独裁者であっても、いにしえの聖人のような人であっても、ほとんど同じなのですが、要は、いずれのケースにしても、実際には、多くの人々が、本当に安心して、何も考えずに服従して、自分達の身を任せても、絶対に大丈夫というほど、優秀ではなかった、とか、あるいは、昔の教えが、現代だと、時代が、あまりにも違っていて、全く通用しなかった、などというような理由によって、残念ながら、現代までの歴史を見てみると、こうした多くの人々が、みすみす自分達の自由性を、かなり制限してまで、どこまでも、ついてゆこう、と考えた宗教や政治というのは、どれもこれも、ほとんど失敗に終わり、当然のことながら、そうした宗教や政治に、自分達の人生を賭けた人々も、そうした失敗によって、かなりの手痛い代償を支払わなくてはならなくなるようなケースが、ほとんどすべてであった、ということなのです。

 

自分と自分の周りの人々の幸福が、最大になるように、「自由」と「従順さ」のバランスをとることが、非常に重要である

 このように、人間の中には、どこまでも自由を求めるような性質の部分と、その反対に、どこまでも従順さを求めるような性質の部分の両方があるので、よく世間で言うような形の「自由万能論」のような価値観であっても、また、それとは、一見、対照的な「宗教万能論」や「政治万能論」のような価値観であっても、どちらも、結果として、多くの人間を不幸にしてゆくような、非常に皮肉なところがある、ということなのです。

 そうすると、今後、人類は、一体、どうした価値観を選択してゆけばよいのか、というと、まずは、現代のように、人間は、何でも自由を与えれば、幸福になれる、というような自由万能論のような価値観だけで、社会を営んでいると、いつの間にか、独裁者のような人物に、国家を乗っ取られたり、あるいは、カルト宗教が、山のごとく出てきて、社会を混乱させるような事態になりがちであるので、それゆえ、私は、人間には、自由に生きることで、最高に幸福を感じられるような性質の部分と、その反対に、従順に生きることで、最高に幸福を感じられるような性質の部分の両方の性質がある、ということを、しっかりと認めて、その上で、そうした人間の性質の中の「自由」と「従順さ」の両方のバランスを、上手に取りながら、最高の幸福を目指してゆくことの大切さを、それぞれの個人だけでなく、その社会全体で、しっかりと理解し、共有してゆくことが、これからの時代には、非常に重要になってゆくのではないか、というように考えています。

 

Cecye(セスィエ)

2010年8月23日 9:11 PM, 人生観、世界観 / 政治



«

»

おすすめ記事

過去の記事