2、多くの国々で、政治や民族や文化の問題だと考えられているものの大部分は、本当は、もっと身近な経済的貧困や生活苦に真の原因があるのかもしれない
二つめは、これは単純な話になるのですが、現在まで多くの国々で、民族やナショナリズムの問題と考えられているものの中で、おそらく、7〜8割ぐらいのものに関しては、表向きの建前やスローガンを除いて、かなり単純化して説明してしまうと、政治的な理由や、民族的な理由や、文化的な理由ではなくて、「どうも、この国や地方の様子を見ていると、他の宗教や民族の人々よりも、自分達の宗教や民族の人々は、表向きの大義名分はともかくとして、教育や就職や結婚や居住などの様々な生活の面で、どう考えてみても、いろいろと差別されているようだ」とか、「自分達は一生、どんなに努力しても、ある程度以上の収入のある豊かな生活はできないようだ」などというように、他の宗教や民族の人々と比べて、著しく差別されているように感じたり、また、そうした差別の結果、経済的にとても貧しい生活を強いられていることが、直接の原因になっていることが多いようなのです。
つまり、一切の建前やきれいごとを除いて、その社会で、ある程度満足して生活している人々と、そうでない人々の違いを考えてみると、なんだかんだ言っても、個人や家族として、ある程度、満足できるだけの収入を得ていて、そこそこ豊かな食べ物を食べれて、ある程度、満足できる程度の家や衣服や財産などを得ているような人々は、自分達の属している社会に対して、それほど熱烈に強い敵意や憎しみを持ったりしないものなのですが、そうではなく、いろいろと複雑な事情があったとしても、要するに十分な生活ができるだけの収入がなかったり、また、その結果として、日々の食べ物や衣服や住居にも、こと欠くような生活を送っているような人々というのは、自分達の属している社会に対して、強い敵意や憎しみを持ちやすくなったり、また、ほんのちょっとした誘惑や衝動で、大勢の人々を傷つけたり、害したりするようなテロや犯罪に関わる可能性が、ずっと高くなってゆきやすいようなところがあるのです。
ですから、もし、その国では、結構、崇高な政治的なスローガンや、社会的な理想を掲げていたり、そこそこ優れた文化的な生活を誇っているはずなのに、なぜか今ひとつ社会が不安定になったり、一部の人々が、かなり熱烈にその社会に対して、強い敵意や憎しみを持ちやすいような状況になっている場合には、それは本当は、政治や民族や文化のような高尚な理由からなのではなくて、本当は、もっと身近な経済や生活に関わるような苦難や失望の問題が、別の姿に変えているだけかもしれないというような見方を持つことも、とても大事なのではないか、と思われます(参考)。
Cecye(セスィエ)