三つめは、これはまだあまり考えたことのない人が多いような話になると思うのですが、多くの人々の信仰に関する動作を見ていると、たいてい神仏の絵や像に向かって祈るとか、神仏の象徴に対して、パンパンと叩いて、何か願い事を言うとか、一生懸命拝礼するような姿をよく見るのですが、前にも述べたようにそうした形の信仰形式であると、結局、本当の神仏の存在そのものではない、何らかの神仏の絵や像や象徴のようなものを一度通して、そうした神仏という存在を把握するような状況になってしまうわけです。
ですから、これは信仰の形式としては、以前とほぼ同じようなもので構わないのですが、本当の霊的な立場としては、そうした神仏の絵や像や象徴を通さずに自分自身の心を精妙に整えて、直接、神仏を感じて神仏と交流し、神仏のために様々な信仰的な行為をしていった方がいいのではないか、というように私は考えています。
※つまり、もっと簡単に言うと、これまでの時代には、神仏の絵や像や象徴のようなものを拝むだけで、何となく満足できたかもしれないのですが、現在の地球は、だんだん非常に霊的な世界に変化していってゆきつつあるために、今後は、だんだん多くの人々の間で、そうした神仏の絵や像やシンボルのようなものは、確かに神仏の象徴として尊び、大事にはするけれども、どちらかというと、それぞれの人が何らかの形で直接神仏を感じたり、神仏と交流したりしながら、スピリチュアルな体験をしてゆくような時代に変わってゆくのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2016年3月23日 9:03 PM, イスラム教 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 仏教 / 宗教、道徳 / 現在のアセンションの状況 / 社会、文化 / 神道