かなり前に、「日本の教育やマスコミでは、太平洋戦争の話を、かなり誤摩化して、伝えているのではないか」、というような文章を書いたことがあるのですが、先日、偶然、日本人なら、わりと誰でも知っている「終戦の詔(みことのり)」ではなく、なぜか、ほとんど、その存在すら知られていない太平洋戦争の「開戦の詔」の文章を見つけたので(本やネットで探せば、わりと簡単に見つかります)、それで、「やっぱり、話が違っていたのか」、と納得したので、今回は、この件について、述べたいと思います。
1、日中戦争や太平洋戦争は、軍部が勝手に独走して、拡大していったのではなく、当時の昭和天皇裕仁による、かなりきっちりとした軍部の統制の下に行われていたものである
長いので、最初に要点だけ述べると、よく日本の教育やマスコミの話では、戦前、統帥権などの問題で、軍部が勝手に暴走し続けた結果、戦争が拡大して、敗戦に至った、というような説明を受けることが多いのですが、確かに当時の日本の議会による軍部のコントロールは、ほとんど全く機能していなかったが、当時の昭和天皇による軍部のコントロールは、かなりきっちりと機能していたので、本当は、当時の昭和天皇を中心に、一つ一つの軍事行動が進められたのではないか、ということです(当時の日本陸海軍の最高指揮官は、当時の首相でも、陸軍大臣でも、海軍大臣でもなく、当時、「大元帥」であった昭和天皇裕仁でした。実際、みんなあまり気にしないようですが、戦前、戦中の裕仁の写真は、すごい勲章のたくさんついた軍服の写真が多いです)。
つまり、当時、国民の代表の政府による軍隊の統制、「シビリアン・コントロール(文民統制)」は、ほとんど全く機能していなかったが、当時の昭和天皇による軍隊の統制、「インペリアル・コントロール(天皇による軍隊の統制)」は、常にかなりきっちりと機能していたのではないか、ということです。
この辺りの説明がめちゃくちゃだと、当時の責任関係がかなり曖昧になって、戦前、戦中の日本にも、かなりきっちりした政治体制があったにも関わらず、まるで、それが全くなくて、そうした当時の政治や戦争の責任が、当時の日本国民すべてにあったかのような間違いを教え込まれる可能性があるので、かなり問題が多い、ということです(つまり、責任のごまかしと、すり替えがある、ということです)。
※一般に日本では、「昭和天皇」で通用するのですが、どうもこの人や、この人の関係者の人達は、他の人々に責任を押し付けて、霊的に光って見せる魔術を使えた人のようなので、ここでは、少し読みづらいですが、一代前の日本の天皇であった「昭和天皇」と、その本名である「裕仁」をそのままつなげて、「昭和天皇裕仁」と呼ぶような少し変わった呼び方を用いたいと思います。
Cecye(セスィエ)