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「愛」について Part 11

③物質的に豊かな時代になるとよく分かるのだが、常に何かを求め続ける「渇望」や「執着」の心の中だけでなく、「愛」や「慈悲」の心の中にも、ある種の渇望や不安や自己救済欲のような気持ちが、多少混ざっているようなところがある

 それから第三には、これは、さらに難しい問題になるのですが、実は、愛には根本的な大問題があって、それというのは、一昔前の時代のように常に戦乱や飢饉や疫病や天災などで荒れ果てがちだった不安定な時代には、確かに昔の宗教でよく説かれたように、なるべく一人一人の人間が欲望や執着を捨てて、他者への愛や慈悲の行為をすることが、とても大切であったのですが、ところが近現代に入り、そうした戦乱や飢饉や疫病や天災などによる社会の混乱や不安が、だんだん減少してゆくと、昔のように「常に何か欲しい」とか、「常に自分にもっと何かしてほしい」というような人々自体が、大きく減少するようになっていったわけです。

 さて、そうした過程で、昔の宗教が説くような愛や慈悲の行為を、大勢の人々が大々的に行うようになってゆくと、これはとても不思議な話になるのですが、そうした愛や慈悲の思いや行為の中にも、どうも若干、不安定な要素がある、というか、もっとはっきり言うと、「いくら与えても与えても、完全に与えた感じがしない」とか、「いくら他の人々のために尽くしても尽くしても、本当に相手の役に立った感じがしない」などというように愛の中にも、渇望や不足の精神世界とほぼ同じような、言ってみれば、常に「何か足りない」とか、「何か欲しい」というような人間の心の奥底の根源衝動のようなものがあったようなのです。

 つまり、これは現代のように多くの人々が、いろいろな慈善事業やボランティアに関わるような時代になると、非常によく分かるような話なのではないか、と思われるのですが、確かに昔の時代には、「多少努力してでも、他の人々のために何かする」とか、「他の人々のために奉仕する」というような愛や慈悲の重要性が説かれることが、とても重要だったのは事実なのですが、ただ、本当は愛を与えることの中には、愛を受け取ることと、ほぼ同様の精神的葛藤や、ある種の渇望や不安のような気持ちが存在しているし、また愛する気持ちの中にも、何か本質的に相手の存在を通して、自分自身を救済し、安心感を得たい、というような自己救済欲のようなものが含まれていたのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年12月20日 9:02 PM, キリスト教 / 人生観、世界観 / 仏教 / 宗教、道徳 / 愛について / 知恵、正しさ / 社会、文化



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