「善悪」や「陰陽」や「正誤」といった、二元論的な世界観が強く支配する社会では、なぜか、多くの人々の間に、「一度でいいから、それぞれの極に相当するような人生体験をしてみたい」、というような、妙な潜在欲求が溜まってゆくことになるので、その結果、後から考えてみると、「それほど必要ない」、と思われるような、異常な数の輪廻転生に巻き込まれてしまう人々が、後を絶たないようなところがあった
さらに、ここで問題になってくるのは、実は、こうした二元論的な世界観には、致命的な欠陥があって、それというのは、こうした二元論的な世界観が支配している社会では、おのずと、多くの人々が、潜在的な好奇心、というか、欲求から、そうした二元論が象徴するような、それぞれの極に相当するような内容を、何となく、無意識のうちに、一度は、絶対に、何らかの形で、実際に体験してみないと、気が済まないような、妙な潜在欲求が溜まってゆくようなところがあるのです。
この結果は、極めて不幸なものになるのですが、例えば、ある転生では、ほぼ奴隷同然の一生を送ったかと思うと、今度は、ある転生では、貴族や豪商として、贅沢三昧の生活を送るようになる、とか、また、ある転生では、まるで、勇猛果敢な武将やプロレスラーのような、男性の鏡のような人生を送ったかと思うと、今度は、ある人生では、か弱く、かりんな、みめ麗しい乙女のような、まさしく、女性の鏡のような人生を送るようになる、などというように、はっきり言うと、霊的に見た場合には、本当は、その人の魂としては、別に、それほど深い興味も、強い必要性もないような潜在願望の達成のために、後から考えてみると、「それほど霊的には、必要なかったのではないか」、と思われるような、訳の分からない人生目標の達成のために、次から次へと、訳の分からない、無数の輪廻転生に巻き込まれていってしまうようなところがあったのです。
この結論は、極めて、恐ろしい結果になるのですが、要するに、こうした、「善か、悪か」、とか、「陰か、陽か」、とか、「正解か、間違いか」、というような二元論的な世界観を、多くの人々が受け入れている社会では、多くの人々が、必要以上に強く、この地上の世界に縛られてしまい、結果として、多くの人々が、あっちでも、こっちでも、後から考えてみると、「本当は、それほど必要なかったのではないか」、と思われるような不必要な転生に巻き込まれることになり、その結果、その本人としても、だんだん、途中から、何が何だか、訳が分からなくなっていってしまうような、大変な回数の、いわゆる、無明の無数の生まれ変わりの輪廻に巻き込まれてしまうことがあった、ということなのです。
追伸
一部で、誤解される人がいるといけないので、最初に言っておきますが、こうした「陰陽説」の概念というのは、例のタイムテロと大きく関わっているのであって、ああした「陰陽」や「八卦」の図を見ると、何となく、直感する人も多いかもしれないのですが、実は、ああした、現在、「古代の中国人が考え出した」、と言われているもののうち、「何となく、暗い」、とか、「何となく、怖い、残酷な感じがする」、とか、「何となく、気持ち悪い」、とか、「何となく、変な止まった感じがする」、というような物のほとんどすべては、例のタイムテロと関係していて、後から意図的に、悪意を持って、古代の中国の歴史に付け加えられたものなのであって、本当は、元々の中国にあったものでも、また、古代の中国人が、まじめに研究して、考え出したものでもなかった、ということです(もちろん、全部がそうであるという訳ではないのですが・・・)。
ここでは、紙面の関係で、あまり書けないのですが、ですから、本当は、元々は、そうした古代の時代においては、現代の中国だけでなく、現代の日本や朝鮮や台湾や東南アジアの辺りも含めた、もっと広大な面積の一つの理想郷のような世界があって(つまり、現在、海になっている所も含めて)、そこで、かなり大雑把に、現代風の感覚で言うと、だいたい、現代のヨーロッパと、日本と、ラテンアメリカの良いところが混ざり合ったような(よく分からなくなってきますよね・・・)、非常に、のどかで、至福に満ちた、ある種の楽園のような世界になっていた、というような感じだったのではないか、と思われます。
明日は、お休みになります。
Cecye(セスィエ)
2012年5月27日 9:27 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳