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イエスについて Part 41

霊的に見ても、論理的に見ても、イエスが、十字架にかかることで、その信者達が、許しや救済を得ることは、全く不可能である

 再び、イエスについて、もう少し述べてみたいと思うのですが、今回は、例の有名な「贖罪(しょくざい)説」についての話になります。

 これは、キリスト教について、詳しい人にとっては、非常に有名な話になるのですが、贖罪説というのは、要するに、神のひとり子であるイエスが、十字架にかかることによって、すべての人々の罪があがなわれた、というような考え方になるのですが、これに関しては、霊的、論理的に、冷静に考え直す限り、次のような三つの点において、かなり間違っているのではないか、ということです。

 

1、単純に論理的に考える限り、ものすごい霊的なマスターが、大変な苦痛や辱めの中で殺されることと、それとは、直接、全く何の関係もない、第三者的な人々が、霊的な許しや救いを得ることとは、本当は、全く何の関係もないのではないか

 まず第一には、これは、霊的に、というよりも、よく考えてみれば、誰でも分かるような話なのではないか、と思うのですが、たとえ、どんなに霊的に偉大な人間が、ものすごい苦痛や辱めを受けて、殺されたとしても、それによって、誰かの罪が軽くなる、とか、誰かが救われる、というのは、冷静に考えてみる限り、ほぼ全く、あり得ないのではないか、ということです。

 もっと正確に言うと、これは、誰かの苦痛や死と、それとは、直接、全く何の関係もない、誰かの許しや救いが、一緒に関連づけられている、ということであるのですが、冷静に考え直してみると、これは、ほぼ全く、何の関係もないもの同士を、いろいろと、ものすごく立派な教義で権威づけて、説明しては、「だけど、これと、これは、ものすごく深い関係があるのだ」、とか、「だけど、この関係ないもの同士は、本当は、ものすごい関係があるのだ」、と言っているのと、ほぼ同じなのではないか、ということなのです。

 つまり、これは、冷静に客観的な風景を比べて、考え直してみると、ほぼ明らかなのではないか、と思われる内容になるのですが、非常に偉大な霊的なマスターのような人物が、不当な理由で、ものすごい苦痛や辱めの中で殺された、ということと、たとえ、その人のことを、ものすごく強く信じる弟子や信者のような人々であったとしても、そうした人々が、霊的な許しを得た、とか、霊的な救いを得た、ということとは、本当は、全く何の関係もないのではないか、ということです。

 

2、イエスの十字架上での死は、宗教的に、あれこれ、ねじ曲げて、「全人類の罪があがなわれた、うんぬん」の話にするのではなく、もっと単純に、「古代ローマの一地方における、めちゃくちゃな裁判の問題である」、と考えた方が、問題の本質が、より単純で、明らかで、クリーンになるのではないか

 第二には、これも、よく考えてみれば、当たり前の話になるのですが、イエスと呼ばれる人が、かなり不当な裁判の末に、十字架上で殺された、ということは、キリスト教的には、それによって、人類の罪があがなわれた、とか、許された、というような、ものすごい宗教的な話になるのでしょうが、よく考えてみると、これは、単に、古代ローマ(もしくは、古代ローマの辺境)における裁判の一結果に過ぎない、ということなのです。

 ですから、冷静に考える限り、こうしたイエスの十字架上での刑死の話というものを、ものすごく霊的、というか、宗教的に大きくねじ曲げて、ややこしく拡大解釈しては、それによって、「人類の罪があがなわれたのだ」、とか、「許されたのだ」、などと捉えるのではなく、もっと単純に、せいぜい、「この話では、約2000年前のローマの属州において、かなりめちゃくちゃな裁判が行われたらしい」、とか、「当時のローマでは、時々、かなり残虐な刑罰が行われていたらしい」、などというように理解すればよく、それを、あまりにも、訳の分からない宗教的な教義にこじつけて、説明する必要は、そもそも全くないのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年3月14日 9:08 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界



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