2、現在の葬式の文化では、生前、全く偉いとも凄いとも思っていなかったような人を、死んだ途端に、「神様」、「仏様」、などと崇めてしまったり、澄んだ高次元の霊界の天国に、まっすぐに行きづらくさせるような、とんでもない悪魔的な習慣があることが多いので、本当は、霊的に見ると非常に問題が多い
第二には、これもよく考えてみると、とても不思議なことであるのですが、別に生前は、それほど偉いとも素晴らしいとも思っていなかったような人であっても、なぜか、その人が亡くなった途端に「神様」、「仏様」などと言って、多くの人々が、一生懸命、その人のお墓や仏壇を前にして拝むような姿が、現在の日本では、数多く見られるのですが、これは、どう考えてみても人間の行動としては、完全に矛盾しているのではないか、ということです。
それというのは、普通、多くの人々が認識している「神様」、「仏様」というのは、ものすごく傑出した覚者や救世主のような存在であるか、もしくは、多くの人々を目に見えないような形で、常に救い導く偉大な霊的存在であると考えられていることが多いので、実際問題として、ついこの前まで、普通のおじさん、おばさん、あるいは、おじいさん、おばあさんをしていた人々が亡くなった途端に、突然、「神様」、「仏様」のような存在になれるとは、ちょっと普通、常識的には、全く考えられないからです。
それと、もう一つの問題は、そんなに簡単に生前、別に大して偉大とも凄いとも感じていなかったような人々のことを、まるで神仏のように拝んだりしてよいのか、というような素朴な疑問があるのですが、どうも日本や中国の葬式の歴史を調べてみると、おそらく、当時の為政者の人々の立場としては、できるだけ多くの人々が、何度も何度も人間や、その他の生物として、生まれ変わってくれないと、よほど困ると思ったからか、人が死ぬたびに、「何度も何度も、その人の生前の名前や、死後、宗教的に特別につけた戒名のようなものをしつこく呼び続けては、地上の世界や、その宗教独自の霊界のような所に呼び戻さないといけない」、とか、「人の死体や骨を祭壇(お墓や仏壇も含む)を築いて、祭って、神仏として、崇めることによって、ずっと、その人の魂が、地上の世界に縛られるようにしておかないといけない」、とか、「毎月毎月とか、毎年毎年という具合に、かなりしつこく供養のような準葬式のような宗教儀式を営んで、その人の魂が、そう簡単に地上の世界から離れて、澄んだ高次元の霊界に抜けられないように呪縛しておかないといけない」、とか、「その人自身の独立した個性をできるだけ認めずに、神仏や昔の偉人や聖者や、大勢の家族や親族や先祖とひとまとめにして、一緒の墓や祭壇に祭って、そう簡単には、一人だけ抜けて、高次元世界に逃げられないようにしておかないといけない」、などというように、かなり執拗に国家権力や宗教的な脅しをちらつかせながら、誰かが死ぬたびに、普通、ちょっと自然には、そこまでやらないのではないか、と思われるほどのかなり面倒な儀式である「葬式」や、それ以降の「供養」などの儀式を作っていったようなふしがある、ということなのです。
ですから、こうした目で見てみると、実は、多くの人々の思い込みとはかなり違って、現在の地球で行われている葬式の文化というのは、亡くなった故人や残された人々を慰めるというよりも、霊的に見る限り、亡くなった人が、霊的に澄んだ「天国」とも呼ばれるような高次元世界にまっすぐに行くことをできるだけ邪魔するために、「これをやれば、そう簡単には、天国には行けないのではないか」、とか、「こうすれば、何度も何度もほとんど無意識のうちに、地上の世界で人間や、いろいろな生き物として、生まれ変わらなくてはならないようになるのではないか」、とか、「これだけ、たくさん言霊(ことだま)を使って、その人の名前を強く重々しい語調で呼び続け、宗教儀式を行って、霊的に封印し続ければ、絶対に、この地球から逃げ出せなくなるのではないか」、などという具合に、実は、多くの人々の魂を天国に導くのではなくて、その反対に多くの人々の魂を地上の世界や「幽界」などの低次元の霊界に、できるだけ長く引き止めるために、当時の権力者の人々の都合によって、いろいろな試行錯誤の末に考案された宗教的な最終兵器のようなものの一つであったのではないか、ということなのです。
こうした二つの観点から見る限り、霊的、あるいは、宇宙的に見た場合には、現在の地球で行われているような「葬式」や、それに準じた「供養」の習慣というのは、まるで悪魔儀式の一種でもあるかのように、実際、外宇宙の人々の目からは、かなり奇異な目で見られている、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年9月6日 9:26 PM, コラム / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宇宙文明、古代文明