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「陰陽説」について Part 34

④数千年、数万年サイクルの霊的な目で見た場合には、たいていの人は、その人の魂の総合的な成長のために、数百年、数千年単位で、いろいろな信仰スタイルを、順番に学んでゆくようなところがある

 それから、第四には、これは、ちょっと、さらにややこしい話になるのですが、実は、信仰というものを、今述べたような、一種の総合的な大慈善事業団体への参加というような目で見ると、非常に分かりやすくなってくるのですが、要するに、どんな仕事や事業にも、ある程度、それが必要とされる、年月の制限があるように、こうした「信仰」と呼ばれる内容にも、たいてい、ある種の期間制限がついているようなところがあるのです。

 これは、よく、「信仰は、永遠である」、というような宗教の趣旨とは、いっけん、かなり異なるように感じられるのですが、要するに、たいていの人は、その人の魂の総合的な成長の観点から、地球的な感覚の説明だと、「ある一定期間は、仏教の信仰をするけれども、その次の一定期間は、キリスト教の信仰をして、それから、その次の一定期間は、イスラム教の信仰をする」、などというような具合に、たいてい、何千年、何万年というような霊的な計画に基づいて、地上の時間における、この数百年の間は、仏教を学ぶが、その次の数百年の間は、キリスト教を学び、その次は、イスラム教を学ぶなどというように、次々と、一定期間ごとに、いろいろな信仰形態を、順番に学んでゆくようなところがあるのです。

 ですから、こうした目で見ると、現在の地球に生まれている、たいていの人は、ずっと同じ信仰を持ち続けた、なんて人は、ほとんどいなくて、実際には、ある期間の間は、仏教徒、ある期間の間は、キリスト教徒やイスラム教徒などというような具合に、はっきり言うと、時間ごと、期間ごとに、全然、違う宗教に属していることが、非常に多かったのです。

 こうした目で見ると、要するに、たいていの人は、たとえ、同じ創造主を信仰しているつもりであったとしても、実際には、数百年、数千年単位というような、一定期間ごとに、次々と、いろいろなタイプの信仰を、いろいろな人生の境遇を体験しながら、学び続けてきた、というのが、一番、合っている説明になるのではないか、ということなのです。

 

この宇宙では、ある一定の許容範囲内であるならば、ある程度のバラエティーに富んだ、信仰対象や信仰方法を選べるようなところがあるのだが、ただし、そうした一定の許容範囲を越えた場合には、やはり、間違いとされる、というような、一定の許容制限を伴う、多元論的な信仰観の方が、より正しいと言えるようなところがある

 さて、こうした四つのことから、いったい、何が言えるのか、というと、これは、非常に不思議な結論であるのですが、実は、「この信仰しかない」、とか、「この信仰が合っていて、それ以外は、間違いである」、というような、いわゆる、一元論や二元論的な立場で、すぐに理解したくなる宗教的な信仰に関しても、本当は、ある一定の許容範囲内であるなら、いろいろな信仰対象や信仰方法もOKである、というような、多元論的な要素が、かなりあるにも関わらず、そうした一定の許容範囲を越えた内容に関しては、やはり、まるで一元論や二元論的な考え方のように、全然、受け入れられない、というようなスタンスをとるしかないようなところがある、ということと、それから、この宇宙における霊的な実態としては、それぞれの魂の総合的な成長の観点から、実際には、いろいろな信仰のあり方が許されているようなところがあるので、そうした点でも、結構、多元論的な要素が、かなり大きいようなところがあった、ということなのです。

 

 多元論的な物の見方には、以上のような、大きく八つのことが言えると思われます。

 このように、物事の物の見方には、大まかに、一元論的な物の見方、二元論的な物の見方、それから、三言論的な物の見方も含めた、多元論的な物の見方がある、ということが言えるでしょう。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 話が込み入っているので、「現在のアセンションの状況について」は、7月になってからになります。

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月28日 9:12 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ



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