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「陰陽説」について Part 28

その国の言語が、バラバラで、まだ、共通の言語がないような状況では、国家による言語の統一は、大変、重要かもしれないが、そうした時期を過ぎたら、結局、言葉は、多くの人々の自然な感覚や流行によって、どんどん変わってゆくものなので、あまり国家が、教育の際に、暗記や文法などと口をはさまずに、多くの人々が、さまざまな言語や表現によって、より自然に広く、楽しくコミュニケーションできるようにサポートするような教育行政に変えてゆくことが望ましい

 さて、そうすると、これで、いったい、どんなことが言えるのか、というと、要するに、その国の教育に関する権威や支配力が、非常に強くて、かなり一元的な教育行政が行われているところでは、一般に、「この言葉は、こういう意味である」、とか、「この言葉の使い方の文法は、これである」、とか、「この言葉の意味や使い方を、丸暗記してください」、というようなことが、よく行われることが多いのですが、私は、「その国が、まだ発展途上で、国中の言語が、バラバラで、全然、コミュニケーションがとれない」、とか、「みんな勝手で、誰も、同じ一つの国の仲間であるというような認識を持っていないので、とにかく、大多数の人々が、みんな同じ言葉が話せ、読み書きできるようにしたい」、というような状況であれば、そうした国家規模の言語統一を行う必要性があるのは、確かに認めるのですが、ただ、そうした国家の統一期を過ぎて、その国が、ある程度、「一つの国家」、とか、「同じ国の国民」、というような認識を持てるようになった後は、国家の教育行政としては、もう少し、民主的な立場に配慮して、その国の多くの人々が話している実際の言語のあり方、つまり、「現在、多くの人々の間で、この言葉は、こんな意味やニュアンスで使われている」、とか、「この言葉は、昔の辞書に書かれていた意味やニュアンスとは、今では、全然、変わってしまったので、現在の意味やニュアンスに合わせるべきだ」、とか、「特に、外国語の修得に当たっては、教科書や辞書の丸暗記よりも、実際に、外国人と話して、コミュニケーションに慣れることの方に、重点を移すべきだ」、とか、「正しい文法の理解や暗記よりも、気軽に外国人とコミュニケーションしたり、より多くの本や文章を、楽しんで読めるようになることの方が、大切だ」、というような考え方に変更した方が、ずっと良いのではないか、というように考えております。

 ですから、日本の多くの人々が、学校教育によって、いつの間にか、何となく、強く信じ込んでいる、一種の「言語教」のような内容、つまり、「すべての言葉には、必ず、きっちりとした意味がある」、とか、「すべての言葉には、必ず、きっちりとした文法がある」、というような言葉の概念というのは、言ってみれば、一種の幻のような話なのであり、実際には、「言葉というのは、単なるコミュニケーションのツールに過ぎないので、その時代や地域、というよりも、その場の状況や雰囲気によって、わりと簡単に、コロコロと意味やニュアンスなんて、変わるものだ」、とか、「言葉の細かい定義やニュアンスが問われる学術用語や法律用語であれば、ともかくとして、実際には、どこの国でも、日常会話では、結構、いい加減な言葉の並び順や省略は、日常茶飯事なので、文法なんて、気にしすぎる人間は、かえって、何もしゃべれなくなるので、外国語の修得の際には、とにかく、場数を積んで、気軽に慣れた方がよい」、とか、「昔の言霊(ことだま)思想から来るような、言葉の魂なんて、実際には、全然、なくて、要するに、言葉は、相手に、自分の言いたいことを、正しく伝えるための単なるツールに過ぎないのだ」、とか、「結局、言葉の意味やニュアンスというのは、どこかの偉い人じゃなくて、多くの人々の自然な感覚や流行によって、どんどん変わってゆくものなのだ」、というような、言葉における「多元性」というものも、ある程度、認めてゆくことが、とても大切なのではないか、ということなのです。

※日本の教育だと、多くの単語や文法の暗記というと、日本語や英語だけでなく、古文に、漢文と、とにかく、たくさんあるのですが、それらの教育効果としては、確かに、多くの人々が、日本語の標準語は、何不自由なく、しゃべれるようになるのですが、それ以外の、英語は、小学校や中学校から、高校まで、六年以上もやって、普通に読み書きできたり、しゃべれる人は、一割もいない、とか、古文や漢文に至っては、社会人になっても、ほとんどすべての人が、一度も使ったことがない、というような状況なので、私は、正直言って、そうした教育の科目に、毎年、何百億円も使うのなら、現在、多くの人々が、自分の意思で、自分のお金を払って、通っていて、一通りの成果の上がっている英会話教室の方式を、学校に、直接、導入する(英語の教師の人は、ほとんどの人は、元々、英語が好きな人だと思われるので、十分な研修を行えば、ほとんど問題ないと思います)、とか、もう思い切って、古文の学習は廃止する、とか、漢文の学習も止めて、現代中国語の学習を、やりたい人は、できるようにする、というような教育に変えた方が、現実的なのではないか、と思います。

※要するに、単語や文法の暗記を、あまりやりすぎるような教育をやられると、人と人とのコミュニケーションよりも、本の文字や、あらかじめ、どこの誰とも全く分からないような人々の決めた、決まりのようなものを重視するような、言ってみれば、一種のロボットのような精神状態をさせられてしまうのが、非常に問題なのではないか、ということです。

※当たり前のことですが、辞書が、言葉の意味を決めるのではなくて、辞書は、現在、多くの人々の間で使われている言葉の意味やニュアンスを説明した、アンチョコみたいなものに過ぎないので(当然、時代と共に、どんどん中身は変化しています)、あまりにも、教科書や辞書や文法中心の教育をやられると、相手とのコミュニケーションよりも、言葉の正しさや、文法が正しいかどうか、ということばかり気にするようになってしまうことがあるので、そこが、問題なのではないか、ということです(ただ、単語や文法の暗記は、当然、ある程度は、必要ですが・・・)。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月23日 9:03 PM, 中国思想 / 政治 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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