Light Symbol

「天命」について Part 1

 「天命」というと、宗教やスピリチュアルな概念だと、神、あるいは、天から与えられた、その人独自の使命(ミッション)のような意味で使われることが多いのですが、そうは言われても、普通は、自分の天命などと言われても、なかなかよく分からないことも多いので、今回は、もう少し身近な観点から考えた「天命」の意味について、考えてみたいと思います。

 

1、人間の人生には、あらかじめ、ある程度、定められた運命の部分と、その人自身の選択と行動によって、新たに作り出された運命の部分がある

 まず、それぞれの人に、あらかじめ決められた、絶対に変えがたい「運命」のようなものがあるのか、ということについて、考えてみたいと思うのですが、霊的な見解、つまり、その人が生まれる前に、いったい、どの程度、自分が生まれた後の人生のあり方を決めることができるのか、ということはさて置くとしても、どう考えてみても、それぞれの人には、その人なりの、あらかじめ決められた、あるいは、あらかじめ制限された「運命」のようなものがあるのは、ある程度、事実である、ということが言えます。

 それは、いったい、どのようなものなのか、というと、例えば、ある人の父親や母親は、とても野球やサッカーが大好きだったので、その子供も、まるで当たり前のように野球やサッカーに親しみ、練習に励んでいたら、気がついたら、いつの間にか、プロの野球選手やサッカー選手になっていた、ということであれば、これは、ある意味、その人の人生は、まるで生まれた時から、きっちりと神に定められた人生であったかのように思われるかもしれない、ということなのです。

 これと同じようなことは、その人の親や家族の職業や趣味や人生観の子供への影響、例えば、親が建築関係の仕事であったので、その子供も、いつの間にか、自然自然のうちに建築関係の仕事に就いていた、とか、親が、フィギュア・スケートが大好きだったので、子供に習わせていたら、どんどん上達して、いつの間にか、オリンピック選手にまでなってしまった、とか、親が、音楽や映画が大好きだったので、その子供も、いつの間にか、華やかな芸能関係の仕事を目指すようになっていた、とか、親が旅行やキャンプが趣味だったので、その子供も、いつの間にか、そうした趣味を持つようになった、とか、親がとても信仰深い家だったので、その子供も、まるで当然のように、信仰深い子供に育った、などというように、後々まで、いろいろな面で、子供の人生に大きな影響を与えることが多いようです。

 それから、これは、あまり考えることがないと思うのですが、たいていの人は、ほぼ生まれながらにして、その国や地域の状況や時代の状況によって、非常に大きな影響、というか、制限を受けるものなので、例えば、一般に今日のアメリカやヨーロッパの子供であれば、非常にオープンな自由主義的な生き方を志向するのに対して、特に少し前のアジアやアフリカの子供だと、物質的にも、精神的にも、かなり制限された生き方をせざるを得ない状況に置かれることが多かった、ということが言えます。

 あと、例えば、ある人の父母が、代々の王家や貴族の家柄であった場合には、おそらく、その子供も、かなりの確率で王家や貴族の後継ぎになるか、あるいは、その周辺の地位につく可能性が、とても高い、ということが言えるのですが、少し前の時代までは、どの国も、かなり強力な身分制に縛られた社会になっていたので、特にそうした状況では、基本的に、親が王様や貴族であれば、その子供も王様や貴族、親が商人や技術者であれば、その子供も商人や技術者、それから、親が農民であれば、その子供も農民などというように、どの人の人生も、あらかじめ生まれながらにして、かなり強力な運命の支配を受けていた、ということが言えます。

 ただ、近代化以降の社会になると、そうした身分制の社会は、かなり急速に廃れていったので、現代であれば、そうした「運命の支配」という概念自体が、かなり遅れた概念になってゆきつつある、ということが言えるようです。

 さて、こうした観点から見ると、それぞれの人には、ある程度、生まれもって、あらかじめ定められた人生の道筋、つまり、運命のようなものがある、ということは言えるようなのですが、ただ、実際には、そうした人生の途上には、いろいろな出来事が起きるものなので、それでは、そうした出来事すべてを、その人の運命と言えるのか、というと、それは、その人自身に、あらかじめ定められた運命であるというよりも、どちらかと言うと、そうした人生の途上で、その人自身の選択や行動によって、もたらされた、言ってみれば、その人自身が作り出した、新たな運命になるのではないか、ということなのです。

 つまり、こうした観点から見ると、そうした絶対の運命のようなものがあるのか、と言われれば、あるとも言えるし、ないとも言える、というのが、実際のところなのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2014年3月7日 9:01 PM, おすすめ記事 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳



«

»

おすすめ記事

過去の記事