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現実的に見ても、論理的に見ても、本当は、「0(ゼロ)」や「―(マイナス)」の存在というのは、全く存在していない

 今回から、少し数学の問題について、考えてみたいと思います。

 

「0(ゼロ)」や「―(マイナス)」という存在が、あたかも、本当に実在しているかのごとく錯覚させる数学の概念は、根本的に間違っており、本当は、「0」にしても、「―」にしても、実際には、「そこには、何もない、何も存在していない」、ということを表す、単なる学問上、もしくは、実用上の仮の表現に過ぎない

 これは、人類が、外宇宙の文明と接触した際などに、よく彼らに批判される内容の一つであるのですが、とにもかくにも、現在の地球の数学というのは、良いところも、たくさんあるのは、確かに事実なのですが、その中には、「ちょっと、それって、あり得ないんじゃないの?」、というような内容が、たくさん含まれているので、非常に問題が多い学問なのではないか、ということなのです。

 それでは、いったい、どのような点が問題なのか、というと、特に学校に入ると、「0(ゼロ)」、及び、「―(マイナス)」の存在があるのが、まるで、宇宙の当然の常識であるかのごとく受け入れることを、強制してくるようなところがあるのですが、ところが、現実の世界の状況を見てみると、この「0(ゼロ)という存在がある」、とか、「―(マイナス)という存在がある」、というような物の見方というのは,言ってみれば、一種の新興宗教の教義のようなところがある、ということなのです。

 たいていの人は、学校では、あれだけ、みっちりと数学の勉強をした上に、実社会に出てからも、もう毎日のように、お金や物の数を数えては、「数字」、「数字」、というような生活をしていることが多いので、まずは、こうした見解に対して、すぐに、「はい、そうです」、とは言えないでしょうから、これから、その理由を、できるだけ分かりやすく説明してみたいと思います。

 

現実的、論理的に見た場合、0という存在は、「ある」という意味ではなく、「そこには、何も存在していない」、つまり、「ない」ということを表す、学問上、もしくは、実用上の仮の表現に過ぎない

 まず最初に、最も大切な結論から、述べてみたいと思いますが、現在の地球で、学校に行き、社会で生活していると、みなさんは、「0(ゼロ)という存在があるなんて、当たり前じゃないか」と、すぐに言われると思うのですが、ところが、これは、現実的に見ても、論理的に見ても、全くの間違いである、ということなのです。

 つまり、現実的、あるいは、論理的に考えた場合には、「0」という意味は、そこに、「0」という存在が、ある、という意味なのではなくて、「0」という意味は、そこに何も存在していない、ということ、つまり、存在の全否定の意味である、ということなのです。

 具体的に言うと、例えば、そこに、「リンゴが、一つある」、とか、「リンゴが、三つある」、とか、「リンゴが、10個ある」、というようなことは、実際に、いくらでもあるのですが、それでは、そこに、「リンゴが、0個ある」というのが、現実にあるのか、というと、それは、単なる理屈上のセリフに過ぎないのであって、実際には、それは、「リンゴは、そこには、一つもない」、とか、「リンゴが、ない」、ということを、単に理屈上の言い回しで言っているに過ぎない、ということなのです。

 つまり、現実的に見ても、論理的に見ても、「0」とは、そこに何も存在していない、何もない、という意味であるにも関わらず、現在の数学では、「0」とは、そこに、「0」という仮の存在が、あたかも、本当に、そこに実在しているかのごとく、錯覚させてゆくようなところがある、という点において、その原点そのものが、極めて、間違っている、というか、もっとはっきり言うと、その原点そのものが、そもそも、単なる仮定、というか、絵に描いた餅のようなところがある、ということなのです。

 

現実的、論理的に考えた場合、ゼロという存在がない以上、マイナスという存在というのも、全くあり得ないので、もし、マイナスという存在があるように見える場合には、単に、表記上、または、実用上の理由から、何らかの基準を、仮に「0」として、それより上の数値を、仮に「プラス」、それより下の数値を、仮に「マイナス」と呼んでいるだけの話である

 次には、マイナスについて、考えてみたいと思うのですが、これも、現実的、あるいは、論理的に考えてみる限り、そもそも、「0(ゼロ)」というものが、全く、そこに存在していない、という意味である以上、それ以下の数字を表す、「―(マイナス)」というのも、そもそも、本当は、全く存在していないものを、あたかも、そこに現実にあるかのごとく、扱おうとする点において、言ってみれば、「無学(無いものを研究の対象にする学問)」のような学問になっている、ということなのです。

 具体的に言うと、例えば、先ほどのリンゴの話で言うと、この場合は、「そこに、マイナスのリンゴがある」、というような言い方になるのではないか、と思われるのですが、それは、何のことはない、単に、「そこには、リンゴは、一つもない」、とか、「今、必要なリンゴが足りない」、ということを、理屈上の言い回しで言っているに過ぎない、ということになります。

 さらに、現代の数学だと、―20、―3000、―10000000・・・・、という具合に、「―」という存在が、あたかも無限に、いくらでも、本当に存在するかのごとく、錯覚させてゆくようなところがあるのですが、これも、もし、そうしたものがあるとすれば、やはり、何らかの存在があるからなのであって、現実には、こうしたマイナスの存在というのは、全く存在していない、ということなのです。

 これも、具体的に言うと、例えば、空気の温度である気温を例にあげると、10度の気温の空気は、熱エネルギーを持っているけれども、0度の空気は、熱エネルギーを、全く持っていなくて、さらに、―10度の気温の空気は、マイナスの熱エネルギーを持っているなんてことは、全然なくて、実際には、気温が、0度だろうが、―10度だろうが、もっと低い絶対零度の基準に比べれば、どちらも、何となく、人間としては、熱く感じてしまうような、200度以上の温度ということになってくるので、何のことはない、本当は、0度の空気だろうが、―10度の空気だろうが、熱エネルギーに満ち満ちた状態であった、ということなのです。

 つまり、これは、単に、表記上、あるいは、実用上の理由で、何らかの基準になるような数値を、仮に0とした場合に、それより上の数値を、仮にプラス、それより下の数値を、仮にマイナスと言っているだけなので(何らかの基準から見て、右に、いくつ、左に、いくつ、と言っているのと、基本的に同じことになります)、実は、こうした数字の「0」にしても、また、「―」にしても、単なる学問上、あるいは、実用上の、仮の表現に過ぎず、本当は、「0(ゼロ)」の存在にしても、「―(マイナス)」の存在にしても、現実には、一切、存在していない、ということは、よくよく理解しておく必要がある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 まだ、説明が、途中なので、ちょっと、こういう話は、難しいかもしれないのですが、こうした「0」や「―」の存在がある、ということを、まるで当たり前のように、多くの人々に信じさせることができると、それによって、この世界に、大変な不幸や悲劇を作り出すこともできたし、また、時空間的には、「反世界」と呼ばれる世界を作り出すことができた、ということなのです。

 これは、霊的には、かなり、はっきりしていることであるのですが、こうした、「0」や「―」の存在がある、というような考え方というのは、宇宙的に見ると、一種の宗教のように見える価値観なので、こうした価値観が、世界の大勢を占めている限り、この世界の混乱や破壊は、おそらく、ずっと続いてゆくことになるのではないか、ということです。

 つまり、逆に言うと、「高次元世界」とも、「高度幸福実現社会」とも呼べるような、五次元以上の世界においては、こうした概念が、ほとんど皆無である、ということなのです。

 続きは、まだ、あるのですが、時間の関係もあって、ちょっと飛び飛びで、発表することになると思います。

 

Cecye(セスィエ)

2011年7月30日 8:41 PM, コラム / 人生観、世界観 / 教育



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