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「陰陽説」について Part 15

3、世の中には、多元論的な物の見方によって、大きな利益や幸福が得られるものが多いのは、確かに事実なのだが、ただ、たいてい、それには、それなりの問題点があることも多いので、慎重さと注意が必要である

 第三には、今度は、かなり話が変わってきてしまうのですが、前に述べたような、「極端を排して、できるだけ真ん中の、最も最適な要素を選ぶ」、というような「中庸(中道)説」や、あるいは、「単に一つ、二つの要素に固執せずに、たくさんの要素を並行的に並べて、その中から、最も最適なものを選べばよい」、というような「多元論」的な考え方については、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、だいたい、以下のような八つの内容になります。

 

①たいていの物事においては、行き過ぎ、行かなさ過ぎ、とか、やり過ぎ、やらなさ過ぎの間の、ちょうど中間ぐらいの、第三の最も理想的なバランスの良い行動目標や幸福実現点を目指し、心がけてゆくと、最も良い結果が得られる、というような、「中道」、「中庸」と呼ばれる、「三元論」的な物の見方が成り立つものである

 まず第一には、これは、多くの人々の経験則から、ほぼ確実に言えることであるのですが、「何かやってみたが、ちょっと、やりすぎて、失敗してしまった」、とか、あるいは、その反対に、「何かやってみたんだけど、ちょっと、努力、というか、行動の量が足りなくて、なかなか、うまく行かなかった」、などというような、たくさんの経験を重ねるうちに、「これは、ちょっと、やりすぎて、うまく行かないんだけど、これでは、ちょっと、足りないので、その間の、この辺りが、ちょうど、いいんだよな」、というような、仕事や学業や生活の中において、肉体的にも、精神的にも、最も負担がかからず、最も効果的に、いろいろな目的を達成するための、最も良いバランスの部分、というか、ちょうど良い加減の部分のことを、これは、かなりザッとした定義になってしまうのですが、仏教では、「中道」、それから、儒教では、「中庸」、などと呼んで、非常に重用視してきた、ということです。

 ですから、この場合は、肉体的には、厳しすぎず、また、だらけすぎない程度の中道的な行為の大切さや、あるいは、あまり極端に偏りすぎないような、中道的の物の見方の重要性が言われてきた、ということなのですが、ただ、ここで言いたいのは、要するに、何らかの物事において、行き過ぎ、行かなさ過ぎ、とか、やり過ぎ、やらなさ過ぎ、といった、二つの両極端の間の、ちょうど中間ぐらいのところに、第三の理想的な、最良のバランスの行動目標、というか、最良の幸福実現点のようなところを想定して、常に、そこを目指し、心掛けるようにしていれば、仕事や学業にしても、また、生活全般にしても、最も最良の結果が得られるのではないか、というような考え方になります。

 ですから、こうした「中道説」や「中庸説」というのは、言ってみれば、二つの両極端の間の、ちょうど中間ぐらいのところに、理想的な最良のバランスの良い部分、というか、最良の幸福実現点を想定して、そこを目安にして、生きてゆこう、というような考え方になるので、これは、言ってみれば、一元論でも、二元論でもない、第三の「三元論」的な物の見方ということになるのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年6月6日 9:03 PM, おすすめ記事 / 中国思想 / 仏教 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ



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