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「陰陽説」について Part 4

2、多くの人々が、単純な「善悪」や「陰陽」や「正誤」といった、二元論的な世界観を受け入れると、なぜか、その後、多くの人々の思考や行動の自由性が、かなり縮小されるのみならず、多くの人々の霊的な能力の退化や、身分間の格差の増大や、残酷な刑罰や紛争や混乱の増加といったマイナスの現象が起きると共に、多くの人々が、必要以上の、無数の不毛な生まれ変わりの輪廻に巻き込まれてゆくことが多かった

 第二には、これは、あまり深く考えたことのある人は、少ないのではないか、と思われる内容になるのですが、実は、前に述べたように、この世の中の万物を、何でも対照的な二つの要素に分類するようなことをしていると、霊的にも、また、物質的にも、とんでもない災難に巻き込まれてしまうことがあるのです。

 これは、順を追って、説明しないと、なかなか、よく分かりづらいと思われるので、論理的に、順を追って、説明してゆきたいと思いますが、まずは、例えば、ある人物が、こうした「陰陽説」のような二元論の物の見方を受け入れたとします。

 そうすると、このある人物は、その後、基本的に、何か物を見るたび、あるいは、何か物事を行うたびに、「これは、善なのか、悪なのか」、とか、「これは、陰なのか、陽なのか」、とか、あるいは、「これは、正解なのか、間違っているのか」、ということを、そうした二元論的な一種の思考訓練によって、ほぼ反射的に考えたり、判断したりするようになってゆくのですが、この後が、不思議で、こうした、常に、「善か、悪か」、とか、「陰か、陽か」、とか、「正解か、間違いか」、というように分けて、考えるような思考習慣のついた人物というのは、なぜか、その後、それ以上のプラスアルファーの内容、例えば、「これは、なぜあるのか?」、とか、「これは、どうして起きるのか?」、とか、「これを、自分や多くの人々が、もっと幸福に便利に使えるようにするには、どうしたらよいのか?」、とか、「これを、別の物の見方で見た場合には、どんなことが言えるのか?」、とか、「これ以外の物の見方は、何かないのか?」、というようなことを、あまり深く考えなくなるようなところがあるようなのです。

 つまり、こうした形で、多くの人々が、常に、何か見るたび、行うたびに、「善か、悪か」、とか、「陰か、陽か」、とか、「正解か、間違いか」、などと考えるようになると、なぜか、その後、多くの人々の思想的な自由性や創造性が、かなり大幅に低下してゆくと共に、その社会全体が、なぜか、一つの秩序や形式の枠から、あまり離れなくなって、そして、多くの人々が、わりと、ほぼ同じような仕事や生活のスタイルのまま、ずっと過ごし続けようとするような、言ってみれば、一種の過度の安定志向社会、というか、万年無変化社会に落ち着いてゆこう、とするような、非常におかしな現象が起きることになる、ということなのです。

※これは、いくら悪いことをしてもよい、というような意味ではなくて、前にも述べたように、基本的には、自分の幸福と、できるだけ多くの人々や生き物達の幸福を両立させるような形の、それぞれの状況に応じた、わりと柔軟性のある、善悪の考え方を持った方が、良いのではないか、というような見解になります。

※ですから、基本的には、「自分がされたら、嫌なことは、他の人にもしない」、とか、「自分がされたら、嬉しいことを、できるだけ、他の人々にもしてあげる」、というような愛の原則になります。それと、この世的な法律の遵守や、場合によっては、宗教的な戒律の遵守も、当然、ある程度は、尊重するべきなのですが、ただ、時代や状況の変化によって、現代では、もうすでに不適切と思われるものについては、できるだけ早く、そうした法律や戒律自体の変更を行うのが、適切なのではないか、というような考え方になります。

※結論から言うと、自分の肉体や精神が、バランスがとれて、穏やかで幸福な状況を守ると共に、できるだけ多くの他の人々や生き物達への愛ある行為を行う、ということが、とても重要になるのですが、この際に、あまりにも、何でもかんでも二つに分けて、考えるような態度を持っていると、それが不可能になるので、注意が必要なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年5月27日 9:03 PM, 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 社会、文化



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