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「正しさ」について Part 8

⑤多くの人々の集団の中心の象徴となる存在は、多くの人々の幸福や利益を全面的に肯定するようなものでなくてはならない、というような少し不思議な正しさのようなものもある

 第五には、これは、あまり言われないのですが、こうした幸福主義的な観点に立つと、どこかの段階で、どうしても譲れなくなるような、ちょっと不思議な正義、というか、正しさのようなものがあるということです。

 それは、いったい何なのかというと、これは、あまり考えたことがない人が多いかもしれないのですが、ある程度の規模の国や地域、あるいは、企業や団体などの人々の集まりの中には、どこかに必ず、「これが、その中心」とか、「これが、その象徴」と言えるようなものが、何かしらあるものなのですが、それが何らかの面でずれてしまっていると、なぜか、みんな訳の分からないようなプレッシャーやストレスを感じたり、閉塞感や不幸を感じたりするような状況になってゆきがちであるということなのです。

 それは憲法や法律であることもあれば、大統領や国王や貴族のような人間であったり、あるいは、シンボルとなる旗や名前や記号であったり、それから建物や銅像のようなものであったりすることもあるし、それから海や山といった自然のものや、大勢の人々が参加する伝統行事や習慣であったり、あるいは、宗教的な神仏であったりすることもあるのですが、要するにそうした多くの人々の集団の中心や象徴のようなものが、多くの人々の利益や幸福を全面的に肯定するようなものでないといけない、というような少し変わった「正しさ」のようなものがあるということなのです。

 ですから多くの人々の集まりの中心となる存在というのは、多くの人々の利益や幸福を全面的に肯定するようなものでなくてはいけない、というような、少し変わった正しさというものもあるということは理解しておくべきなのではないか、というように考えております。

 

 このように一昔前のように宗教や道徳が、単純に「絶対的な正しさ」というものを決められたような時代からは打って変わって、現代では、「自分自身も含めて、いったい、どれだけ多くの人々や生き物達を不幸とせず、幸福にしたか」というような「幸福主義」的な価値観に基づく新たな「正しさ」の時代に、だんだん変化してゆきつつあるのではないか、ということです。

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月12日 9:12 PM, 知恵、正しさ



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