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何かやる時には、できるだけ心から楽しんでやる精神的習慣を身につける Part 4

④何らかの宗教的な信条によって、自分の心の中に深い罪悪感や強い神仏への怖れのようなものを持っていると、どんなに楽しいことがあっても楽しめない性格になってしまうので、できれば、もっと人間的で明るい気軽な人生観を持てるような考え方に切り替えた方がよい

 第四には、これは宗教的に熱心な方には、ちょっと意外な話かもしれないのですが、世の中には、何らかの宗教的な信仰や教義や戒律などによって、自分の心の中にものすごく深い罪の意識であるとか、ものすごく強い神への怖れのようなものを持っている人が結構数多くいるものなのですが、私は、できればそうした強い罪悪感や神への怖れの意識を植え付けるような宗教からはなるべく足を洗って、もう少し人間的で明るい気軽な精神性を身に付けられるような人生観に切り替えていった方が賢明なのではないか、というように考えております。

 それというのは、これは具体的に考えてみれば、すぐに分かると思うのですが、どんなに楽しいウキウキするような幸せな出来事があったとしても、基本的にあまりに強い罪悪感や怖れの意識を持ちすぎているような人というのは、全く楽しめないようなところがあるからなのです。

 それでは、こうした罪の意識や神への怖れということについては、いったいどのような見解を持てばよいのかというと、大体、次のような三つの考え方になります。

 

①宗教的な信仰や教義や戒律による「罪」の概念というのは一種の幻想のようなところがあるので、特に他の人々や生き物達を害したり、自分を傷つけたりしていない場合には、それほど強く罪の意識を持つ必要はない

 まず第一には、これを言うと「もう宗教は、おしまい」というような霊的な真実があるのですが、実は、霊的に見た場合、「人間が何らかの行為をすることによって、罪が生(しょう)じる」というような概念というのは、例の暗闇の勢力によって、かなり周到に作り上げられていった一種の幻想のようなところがあるということなのです。

 つまり、よく考えてみると、この世的に見て、誰か他の人々や他の生き物達を特に害しているわけでもなければ、また自分自身を害しているわけでもないということであるならば、本当は霊的に見ても、また、この世的に見ても全く問題ないはずであるのですが、ところが、ここに宗教的な信仰や教義や戒律のようなものが足を突っ込んでくると途端に変わってゆき、「ここでこの大切な礼やしきたりを重んじなかったのは、霊的に見ると、ものすごい罪になる」とか、「自分は知らなかったが、とにかく人間は、ものすごく罪深い生き物らしい」とか、「他の人は気にしないかもしれないが、この戒律を犯してしまったので、自分は今すぐ懺悔しないといけない」などというように普通の人間社会での生活とは全く違った罪の意識や失敗の感覚や、罰される感覚や、あるいは何らかの償いが必要な感覚を持ってしまうことになるということなのです。

 ただ、これはまた別の機会に述べたいと思うのですが、私は、基本的にはこの世的に見て、別に他の人々や他の生き物達に害を加えたり、また自分自身を害しているわけでもない場合には、それほど特別に罪の意識を持つ必要はないのではないかというように考えています。

 

②近現代の民主主義や自由主義の発達には、高次元世界の神仏の意思がかなり色濃く反映されているので、古代や中世において成立した宗教の罪悪を犯すことよりも、近現代において民主的に成立した法律や倫理を破ることの方が、ずっと重い罪になってしまうようなところがある

 第二には、宗教的な性格の人の中には、こうした宗教的な罪悪についてはものすごく敏感なのだが、この世的な罪悪にはかなり鈍感というか、場合によっては、ほとんど無視してゆくような人すらいるようなところがあるのですが、実は霊的に見ても、この世的に見ても、宗教的な罪悪を犯すことよりも、そうしたこの世的な罪悪を犯すことの方が、ずっと重い罪になってしまうようなところがあるということなのです。

 これはよく考えないと分かりづらいのですが、つまり、そうした宗教が成立した古代や中世の時代における善悪というのは、基本的に何らかの神仏の定めた善悪の基準がそのままストレートに説かれていることが多いのですが、ところが、これはまだ現代ではあまり知られていないのですが、そうした神仏の考えている善悪の基準というのは、近現代以降だと、どちらかと言うと多くの人々が議論によって定めていった憲法や法律の方に反映されていることの方がずっと多いということなのです。

 その理由は単純で、前にも少し述べたように実は、近現代の民主主義の発達の裏には、そうした古代や中世において多くの人々が信仰していた神仏のような光の存在達によるかなり直接的な指導があったので、はっきり言うと古代や中世と違って、現代では、そうした多くの人々が信仰している神仏の考えというのは、どちらかと言うと民主主義や自由主義の方に色濃く現れているからなのです(もちろん、すべての法律や倫理観が、そうであるというわけではないのですが・・・)。

 

③強い恐怖心は人間の心を閉ざして、高次元世界との交流を不可能にしてしまうために、まずは、まともな神仏のような存在があまりに強い恐怖心を持たせるような啓示やチャネリングを行ってくることは、ほぼ絶対にあり得ない

 第三には、これは人によっては、かなり意外に思われるのではないかというような内容なのですが、実は、それほど高くないというか、それほど凄くない「神仏」を名乗るような存在は別として、この宇宙の本当の創造主のような存在というのは、基本的に人間や生き物達をあまりに深く怖れさせるような指導の方法は、ほとんどめったに使わないからです。

 つまり宗教などで多くの人々を怖れさせるような話が出てきた場合には、確率的に言うと、たいてい十中八九は、ほぼ「ちょっとインチキの霊的存在なのではないか」と疑った方が賢明なのではないか、ということなのですが、それというのも実は、あまりに強い恐怖心を持ってしまうと、原則どんなに優れた霊媒や預言者のような人物であったとしても、まともな神仏のような光の存在達の声というのは、全く聞こえなくなってしまうからなのです。

 つまり、どんな霊的存在であったとしても、心の底から怖がらせようとしてくるような存在というのは、ほぼ間違いなく、「低次元の存在なのではないか」というように疑う必要があるということなのですが、もし、そうではなく高次元世界の霊的存在である場合には、いくら話の展開上、少々怖い話をしてきたとしても、基本的には、冷静に落ち着いて対処するように語りかけてくることが非常に多いということなのです。

 

強い罪悪感や神仏への怖れのような感情を持っていると、まずは絶対に幸せな生活をしてゆけないようなところがあるので、できるだけ、より人間的で明るい気軽な人生観を持てるような考え方に切り替えた方が賢明である

 このように実は、いくら宗教的に熱心な人であっても、あまり深い罪の意識や神への怖れのような意識を持っていると、いつまで経っても本当に幸せな生活をしてゆけないようなところがあるので、それゆえ私は、そうした考え方よりかは、できるだけ、より人間的で明るい気軽な人生観を持つようにした方が賢明なのではないか、と考えております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月23日 9:11 PM, 人生観、世界観



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