つまり、かなり責任ある政治的な決定をしなくてはならない与党的な立場の政治家や政党になると、そう簡単にそうしたそれぞれの問題に対して、「これは反対だ」「そもそも、そんな問題はないのだ」などと発言することは非常に難しくなってくるようなところがあるわけです。
つまり、もっとはっきり言ってしまうと、与党的な立場の政治家や政党になると、そうしたそれぞれの問題に対して、かなりきっちりと正確な情報を集めたり、多くの人々の意見や専門的な立場の人々の意見をよく聞いた上で、「これは自分自身の考えとは少し違うのだが、自分の政治的な立場としては、今のところ、こういう発言をするしかないかな」「まだ状況がよくわからないので、とりあえず今のところは発言を控えるしかないようだ」「自分が知っている党の主だった重鎮の人々の意見から考えると、自分はこういう言動をするのが一番賢明なようだ」などというように、かなり慎重な立場をとるしかないようなところがあるのです。
しかし野党的な立場の政治家や、また場合によっては、マスメディアの人々や、インターネット上の発信者の人々は、そうした制約はかなり少なくなってくるので、「それはいったい、なぜなんですか?」「どうして、そういうことはできないんですか?」「それについて、もっとたくさん話すことはできないんですか?」、さらには、「本当は何か隠し事しているのではないのですか?」「その問題は、誰が責任者だったんですか?」「全く何もできていないんじゃないですか?」「なんで、すぐうまくできないんですか?」「そもそもその問題自体が元々なかったんじゃないですか?」などというように、かなり気軽に発言できるようなところがあるわけです。
そうすると、そう簡単に適当なことをしゃべれない与党的な立場の政治家の人々と、そうした立場にはないので、もっと気軽にいろいろなことがしゃべれる野党的な立場の人々の間で、様々な行き違いや衝突が生じてくることがあるわけです。
ところが、そうした状況を周りで見ている多くの人々の立場からすると、まるで与党的な立場の政治家の人々は、いつも守りの立場に立っていて、そして逆に野党的な立場の政治家や、マスメディアの人々や、インターネット上の発信者の人々は、いつも威勢よく、そうした人々を責め立てているように見えてきやすいようなところがあるのです。
Cecye(セスィエ)
2025年7月11日 9:03 PM, 政治 / 現在のアセンションの状況 / 知恵、正しさ / 社会、文化