その理由としては、幾つか考えられるのですが、かなり物事を単純化して説明すると、要するに元々、多くの人々が強く支持しているような何らかの宗教や思想のようなものがあったとすると、そうした宗教や思想は、たいてい大変ありがたい、素晴らしいものと受け入れられていることが多いので、そうすると、当然のようにそうした宗教や思想に非常に熱心な個人や集団が現れてくることがあるわけです。
そこにそうした宗教や思想に非常に熱心な王が現れて、しかも、そうした宗教や思想の人々に非常に強く支持されるようになると、そうした宗教や思想の教義に非常に忠実な社会の実現を、かなり急進的な形で実現しようとし始めることがあるわけです。
しかも、そうした宗教や思想は、それを強く支持している人々には、まるで絶対の理想や正義のように強く確信されているし、また、それ以外の大多数の人々も、そうした宗教や思想の教義を大々的に掲げられると、何しろ絶対の理想や正義のように言われていることも多いので、何も反論できずに、何でもかんでも言われた通りに従うしかないような状況になっていってしまうことも多いようなのです。
ところが、そうした理想の政治を実現しようとしている人々の思惑とはかなり違って、大多数の普通の生活をしている人々の感覚としては、「これまで大事な教えはしっかり守ってきたが、しかし今までは、そこまで厳しく言われなかったので、普通の仕事や生活については、ある程度適当にやって、うまく回してきたのに、最近は国の管理がとても厳しいので、仕事や生活がとても大変になってきてしまった・・・」「この宗教や思想はとても大事だと思っているのだが、あまり厳しく統制されると、すっかり仕事ができなくなって、生活に窮するようになってしまった・・・」「元々、貧乏な生活の中で何とかやりくりしていたのに、こんな厳しいことを強いるなんて、あいつら権力者が本当に恨めしくなってくる」などというように、普通の大多数の人々の感覚としては、そうした宗教や思想自体は、まあ、ある程度よいものであるとは思っていても、実際の毎日の生活では、かなり強い不満や怒りを抱えた状態になってゆくことが多かったようなのです。
Cecye(セスィエ)