①政治的なパフォーマンスの能力と、実際の政府や議会での政治的な実務能力の違いについて
まず最初にも述べたように選挙などでの政治家選びの際には、それぞれの候補者の演説や集会などでの政治的なパフォーマンスの能力と、実際に政府や議会の運営に関わって、政治活動を行ってゆくための政治的な実務能力の違いについては、あらかじめ、はっきり見極めておく必要があるということです。
つまり選挙の際に政治家の候補者は、はっきり言って、言葉としては、何でも言えるようなところがあるのですが、しかし、実際に政府の運営や議会の仕事に関わるようになると、もっと着実な実務能力が求められるようなところがあるわけです。
それゆえ、選挙の際に多くの人々が、「ああ、あいつの言ってることはスカッとするから、あいつに投票しよう」「そんなうまい話があるなら、今すぐ自分も乗ってみたいので、あの党に投票しよう」などというように、わりと単純にそうした政治家の候補者の言葉だけを信じて、投票活動していると、おそらく、その後、政治の世界は、ずっとごちゃごちゃと荒れた状態になり続けてゆきやすいのではないか、と思われます。
ですので、そうではなく、かなり簡単に述べると、そうした政治家の候補者の略歴や過去の言動などについても、もう少し詳しく見直してみて、「ああ、こういう人なら、政府の仕事でも、議会の仕事でも、すぐに実戦力で働けそうだな」「この人は話はうまいんだけど、批判ばかりで政治的な実務は、まだ全然やったことないのだな」、あるいは、「この人は、まだ政治の実務にはあまり通じていないようなのだが、とても熱意があって、経歴を見ると、ある程度は政治の仕事でもできそうなので、ぜひ政治の世界で頑張ってもらいたいものだな」などというように、要するに話やパフォーマンスの巧みさだけでなく、実際の政府や議会の仕事にどれだけよく通じていて、実際の政治の仕事ができるのかどうか、ということを、できる政治家選びの一つの基準にすればよいのではないか、というように私は感じております。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年9月6日 9:04 PM, 人生観、世界観 / 政治 / 知恵、正しさ / 社会、文化
二つめは、これはかなり難しい問題になってくるのですが、一般に民主主義の国々においては、国民が政治家を選ぶ選挙は、絶対に良い制度であると深く広く信じられていることが多いのですが、先ほどから何度も述べているように多くの人々が、選挙で政治家や政党を選んだとしても、人類の歴史を見るとよくわかるように、そうした選挙の結果、とんでもない独裁者を生み出していってしまうことがあったり、また、そうして選ばれた政治家が、後々、大きな政治的な失敗をしてしまうことも、結構たくさんあったりしたわけです。
それでは、これまでに述べたこと以外にそうした選挙において、多くの人々が多数決によって、少しでもより優秀な、より良い政治家を選んでゆけるようにするには、いったいどうすればよいのか、というと、だいたい次のようなことが言えます。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年9月6日 9:03 PM, 政治 / 知恵、正しさ / 社会、文化
1、政教分離の原則について
まず一つめは、一般に民主主義の国では、別に宗教団体が政治家を応援しても、全く構わないことになってはいるのですが、ただし、そうした宗教的な内容を、あまりにも厳格に政治の世界には持ち込まない方がよい、あるいは、持ち込んではいけない、とするような政教分離の政治のあり方というものがあります。
それというのは、先ほども述べましたが、宗教というのは、多くの人々に心のより所や深い安らぎや安心感をもたらすような精神的な効用があるのですが、しかし、その一方で、たいていの宗教では、何らかの絶対的な真理や法や正義といった宗教的な価値観も、強く強要してくるようなところがあるからです。
ですので、はっきり言って、そうした宗教が政治の世界に、あまりにも強く関わりすぎるようになると、本当は実際の事実関係を調べて、その時代時代の社会のあり方や科学技術の進歩なども反映しながら、かなり冷静に客観的、慎重な態度で、政治的な決定や命令をしなくてはならないような非常にデリケートな問題があったとしても、ほとんど、そうした細かな調査や検討もせずに、「我々の宗教的な教えによると、絶対にこれが正しいのだ」「神の意志によれば、この人達の主張はすべて間違いなので、一方的に処罰しても何の問題もないはずだ」「宗教的な教義を厳密に検討した結果、現在の社会には何も問題はないので、現在のままの政治体制を永遠に続けてゆけばよいはずだ」(思想や政治的な主張などについても、多少似たようなケースがあるとは思いますが・・・)などというような具合に、はっきり言うと、ほとんど何の政治的、社会的な問題の解決など一切せずに、そうした宗教的な教義に基づいて、かなり独善的に一方的な政治的な弾圧のようなものを、いくらでも行えてしまえるようなところがあるわけです。
21世紀初頭の現代の世界においても、そうした政治の問題は、時折、垣間見られることがあるようなのですが、それゆえ、これまでの歴史の経緯において、そうした問題で散々政治がおかしくなって、国内外の人々が非常に迷惑したと理解している民主主義の国々では、宗教活動の自由は普通に認めているけれども、そうした宗教が、政治の世界には、あまりにも深く関わらないようにするための政教分離の仕組みが、政治の仕組みに組み込まれているようなところがあるわけです。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年9月1日 9:04 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 教育 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 科学、テクノロジー / 経済
ここまで様々な観点から述べてきたように一見、良いことしかないように感じられる宗教的な政治であっても、また優れた思想に基づく政治であっても、さらには一見、絶対に良さそうに見える理想主義や、信仰心や正義感の強い、とても善良そうな人間による政治であっても、ひとたび、あまりにも大きな政治権力を握らせると、後々、かなり大きな問題を巻き起こす可能性もあるということなのですが、それでは、こうした現在のような政治の状況において、私達は、いったいどのような解決手段を見つけてゆけばよいのか、というと、だいたい次のようなことが言えます。
実は、こうした民主政治の問題は、近現代に民主主義に基づく政治体制を築こうとしたヨーロッパの国々では、すでに最初の段階から、かなり大きな問題になっていた内容であったので、それゆえ、そうした問題を克服するために様々な政治や社会の工夫がなされてきたようなところがあるようです。
それは、いったいどのようなものなのか、というと、次のような内容になります。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年9月1日 9:03 PM, 政治 / 知恵、正しさ / 社会、文化
それでは、こうした宗教的な立場をとると、なぜ、そうした問題が起きてゆきやすくなるのか、というと、これは単純な話なのですが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、そうした宗教が成立した時代が、古代から中世にかけてのかなり大昔の時代になるので、はっきり言ってしまうと、そうした宗教をあまりにも熱心に学びすぎると、21世紀初頭の現代人の価値観ではなくて、そうした古代や中世の価値観を、まるで当たり前のように一緒に受け入れさせられてしまうようなところがあるからです。
それでは、そうした古代や中世の価値観とは、いったいどのようなものなのか、というと、かなり大ざっぱにまとめて述べると、要するに隣の国は油断ならない敵国ばかりで、巨大で野蛮な大帝国の下で屈辱的な支配に屈しているとか、戦争や野蛮な残酷行為が当たり前のように行われているとか、厳しい法律や社会制度は当たり前で、王制や身分制や差別や男尊女卑の社会が当たり前になっていて、熱心に信仰する人々はとてもひどい弾圧を受け続けているとか、戦争をして、領土を広げたり、他の国を支配下に置くことは当たり前のことであるとか、いくら努力しても運命は決められていて、社会も世界も、そう簡単には絶対変わらないなどというような価値観を、まるで当たり前のように一緒に刷り込まれていってしまうところもあるようなのです。
ですので、そうした目で現在の世界の様子を見てみると、21世紀初頭の現代のような時代においても、一見、わりときっちりした宗教的な民主主義国家であるはずなのに、そうした宗教的な価値観が強すぎるために、いつの間にか訳のわからない理屈を唱えて、独善的な戦争を始めたり、人々の弾圧や様々な社会の混乱を巻き起こすこともあるようなのです。
それゆえ、こうした一見、非常に良いところしかないようにも見える、古くからの宗教的な内容に関しても、できれば、もっと現代的な価値観も、ある程度、柔軟にしっかり受け入れるようにするとか、また、特に現代の自由や人権などの考え方については、しっかり尊重するような姿勢を持つことがとても大事になるのではないか、というように私は考えております。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月25日 9:03 PM, イスラム教 / キリスト教 / ユダヤ教 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 教育 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 軍事
2、たとえ宗教的に非常に良い人物であったとしても、現代的な価値観もある程度柔軟に受け入れられたり、自由や人権をしっかり重んじられるような人物でないと、後々、いろいろな問題が起きることがあるので、かなり注意が必要である
二つめは、これもかなり難しい内容になるのですが、そうした政治家を選ぶ際には、どうしてもその人の考え方の大きなバックボーンになっている宗教や思想的な背景についてだけは、一度、しっかりとチェックする必要があるのではないか、ということです。
そうすると普通、誰でも、すぐにわかるような内容としては、誰がどう見ても、かなり極端で過激であると判断されるような一部の宗教や思想があげられるのではないか、と思われます。
ところが、ここで非常に難しくなってくるのが、そうした一部のかなり極端で過激な宗教や思想ばかりでなく、場合によっては、現在も、わりとポピュラーなキリスト教やユダヤ教やイスラム教などのような世界的な宗教の中でも、わりと厳格に昔からの教義をきっちり守り抜こうとするようなタイプの宗教の影響というものもあるのではないか、ということなのです。
それは、いったいどのような内容なのか、というと、かなり簡単に要約して述べると、そうした宗教では、一方では、愛や慈悲を説き、善良な人間性の高みを目指してゆくようなところがあるのですが、ところがその一方では、そうした教義の正邪に照らして、結構厳しく他の人々を非難したり、また時には、かなり激しく攻撃して、排除したり、罰を加えたりして、様々な暴力行為を正当化していってしまうようなところもあるのです。
それゆえ現代のような民主主義や、自由や人権を重んじるような政治制度の時代になると、そうした宗教を信じている人々としては、まるで絶対の真理や正義に基づいて、様々な政治判断をしているような気持ちになっているはずなのに、実際には、かなり荒っぽい軍事行動や社会弾圧や、排他的なナショナリズム的な政治を行ったりするようになって、はっきり言うと現代の世界の国や政治の営みとしては、だんだん大きく外れてゆき、大きな混乱状態に陥ってしまうこともあるようなのです。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月22日 9:03 PM, イスラム教 / キリスト教 / ユダヤ教 / 予知、予言、未来予測 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 神道 / 軍事
それというのは人類の歴史を見ると、多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、現在、侵略戦争や人権弾圧などの行きすぎた政治的な犯罪を行なった、とんでもない独裁者や悪い政治家として知られているような人物であったとしても、意外とそうした人物が政治家になった時代には、多少過激な言動はあったとしても、非常に素晴らしい理想主義者や、非常に敬虔な信仰心のある宗教的な人間や、あるいは、人の話がわかる良い性格の善良な人間として、多くの人々に受け入れられていたことも多かったようだからです。
ですので私は、多くの人々の一般的な思い込みとしては、強い理想主義者や信仰深い人物や、善良な人間は、絶対にそんなひどい間違いはしないし、絶対にそんなひどい政治を行ったりはしない、などというように強く思い込まれていることも多いとは思うのですが、しかし人類の歴史を見ると、あまりそうとは言えなくて、どちらかと言うと、そうした非常に理想主義者であったり、信仰深かったり、多くの人々の人気を気にするような善良な人間であったかどうか、ということよりも、ふとした瞬間に現れる非常に感情的な差別的な発言であるとか、自由や人権を無視しても構わないというような非常に過激な言動を、どれだけしているか否か、ということへの注意とチェックが、とても重要になるのではないか、というように考えております。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月20日 9:03 PM, 予知、予言、未来予測 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 軍事
それでは、こうした現在の世界の状況において、私達は、いったいどのように考えてゆけばよいのか、というと、だいたい次のようなことが言えます。
1、民主主義社会の政治家の条件としては、たとえ、どんなに優秀な、良い性格の人物であったとしても、他の人々の自由や人権を無視したり、暴力行為を扇動するような過激な性格が見られた場合には、なるべく政治家になってもらわないようにした方がよい
まず一つめは、民主主義社会の政治家の条件としては、多くの人々から頼りにされ、信頼されるような、非常に優秀かつ、性格的にも穏やかな人物であることがとても大事なのではないか、と思われます。
しかしながら、よくよく冷静に(そう簡単に熱くならずに・・・)、そうした人物のそれまでの言動を見直した際に、例えば、一部の人々の自由や人権を無視したり、暴力的な行為を扇動したりするような過激な性格が見られることがわかった場合には、たとえ、その人が、どんなに愛国心があって、性格的にとても善良そうに見えたとしても、普通の市民の立場であれば、それほど問題ないかもしれないのですが、民主主義社会では、なるべく政治家になってもらわないようにした方が賢明なのではないか、と思われます。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月19日 9:03 PM, 政治 / 知恵、正しさ / 社会、文化
3、優れた政治家と人柄の問題について
三つめは、政治家と人柄の問題について考えてみたいと思うのですが、はっきり言って、現代のように数年に一度の選挙で、その時々の政治家を選んでゆくような民主主義の制度では、多くの人々から、より優秀で責任感があり、より良い性格の人物であると判断されるような人でないと、なかなか政治家として活動してゆくのは難しいのではないか、と思われます。
また政治家の仕事の内容としても、常にたくさんの人と会って、話をしたり、細かい調べ物をしたり、いろいろな意見の調整を行って、できるだけ正しい判断や行動をし続けてゆかないといけないようなところがあるので、はっきり言って、あまりにも知性が低い人や、自分勝手な利己的な性格の人は、あまり向かないようなところがあるのではないか、と思われます。
ところが現在の世界の様子を見ていると、国際的にかなり強い批判を浴びるような、例えば、侵略戦争を始めたり、人権弾圧を行ったりするような、はっきり言うと、かなり非人道的な政治を行なっているような人物であっても、そうした政治家を支持している人々からは、非常に愛国心が強くて、とてもしっかりしていて頼りがいのある、非常に優しい人物であるかのように認識されていることもあるようなのです。
それゆえ、はっきり言って、現代のような民主主義社会であっても、多くの人々の単純な思い込みとは違って、多くの人々の共感を得られるような一見、非常に人の良さそうな人物を、政治家として選んだとしても、ひとたび政治権力を握ると、意外と何をするかわからないようなところもあるということは言えるようです。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月18日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 予知、予言、未来予測 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 軍事
ですので、はっきり言って、まだ資本主義が発達し始めたばかりの19世紀の中頃において、もし理想社会の実現に向けて、もっと確実な国家や社会の進歩を図ろうとした場合には、どちらかというと、当時のマルクス的な闘争ではなく、当時の社会全体の富を増やすために経済活動自体は、さらに活発にさせると共に(やはり公害問題や環境保護への取り組みは大事だったと思いますが・・・)、少しでも確実に労働者の権利をしっかり守ってゆけるような法律や社会制度の充実を図っていった方が、そうした社会の枠組み自体をすべてぶっ壊してしまうよりも、ずっとより良い社会が実現できたようなところがあったのではないか、と思われます(結局、自由主義や資本主義の国々は、そうした政治制度や社会の改善をずっとやり続けていた結果、マルクス主義な社会主義国家よりも、結果としては、社会全体がより豊かになると共に、労働者の権利も、よりしっかりと守られるような社会になってきたのではないでしょうか)。
そうすると共産主義思想自体については、いったいどのようなことが言えるのか、というと、はっきり言って、21世紀初頭の現在までの人類の歴史を見る限り、19世紀の中頃に唱えられたマルクスの経済理論というのは、学問的にも、また政治的、経済的、社会的にも、元々マルクスが唱えたような成果は、ほとんど全くでなかったので、かなり間違ったものだったのではないか、というように歴史的には判断されるのではないか、と思われます。
それで、こうしたマルクスの闘争的な思想の中で最も問題が多いと思われるのは、相手の話もよく聞かずに単純に一方的に決めつけて、不満や怒りをぶつけて、暴力に訴えようとするような態度であったのではないか、と思われます。
当時のマルクスは、単純に「資本家」と一括りにして、まるで人類の敵のように扱おうとしたのですが、私が思うには、当時の時代にも、そうした資本主義の問題をよく認識していて、そうした社会を少しでも良くするために、様々な政治活動や、経済的な慈善事業などをたくさん精力的に行っていた資本家の人々も、たくさんいたようなので、はっきり言って、私はマルクスの言う「資本家はみんな悪い奴らで、労働者から一方的に搾取している」というような主張は、現代と言わず、当時の時代であっても、かなり間違ったものだったのではないか、というように単純に感じております。
※ですので、結局、どこの社会主義国も、マルクスの経済理論を信じて経済運営しても、いつまで経っても、なかなかマルクスの言うような理想社会にはならなかったので、途中で彼らが敵対しているはずの資本主義の国々の経済運営の手法を取り入れるような経済改革をせざるを得なくなっていったようです。
※ただし政治的には、マルクス主義的な革命によって、わりと短期間のうちに、それ以前の王制や皇帝制のような身分社会から、国民が、わりと平等に扱われる共和制に移行できたようなところはあったのですが、しかし残念ながら、そうした国々では、国民の自由や人権は、わりと軽視される傾向があったようです(別の見方をすると、つまり、そうした国々では、国民をさらに豊かに幸福にするための改良点が残っていると考えてもよいのかもしれません)。
続く・・・
Cecye(セスィエ)
2025年8月12日 9:03 PM, 人生観、世界観 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 経済