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昔の大日本帝国憲法の問題点について Part 22

 そして五つめは、これは少し難しい概念になるかもしれないのですが、実は、これまでの時代の国家の主権には、かなり不思議な霊的なカラクリのようなものがあって、それは地上の世界の一部の権力者のような人々が、宗教的、政治的、法律的な様々な方法で、この宇宙の創造主である神仏を霊的に封印することによって、そうした本来創造主や神仏が持っているこの世界の統治権のようなものを奪い取って、そうした人々が神仏の代理というよりも(これならそれほど問題ないのですが・・・)、まるで神仏そのもののように多くの人々に崇めさせるような形で、この世界の一部を統治していたようなところがあったのですが、それが現在、アセンションの進行と共にだんだんそうした異常な統治権の濫用のようなことは少しずつ収まってゆきつつあります。

 つまり、もっと単純に言うと、これまで地球で繰り広げられてきた歴史を見ると大昔には、皇帝(天皇)や王というと、まるで神仏の化身、あるいは、神仏そのもののように崇められていた時代もあったのですが、それが時代を下るにつれて、天にある偉大な創造主や神仏と、地上の世界の皇帝(天皇)や王の立場が明確に分けられるようになってゆき、さらには政治原理の進歩と共に国民の中から選ばれた国民の中で最も政治家にふさわしい人物や集団が政治を行うようになっていったり、また、そうした形ですべての国民が国家の主権(統治権)を共同で担うような時代に大きく変化してきたのです。

 そうすると現在、こうした国家の主権というものは、いったいどのような形が最も望ましいのかというと、これは現在の政教分離的な考え方に近いのですが、昔の聖書に述べられているような「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という言葉の通り、霊的宗教的なものと、この世的政治的なことはある程度、はっきり分けて考えるようにして、確かに霊的宗教的なことはある程度大切にしなくてはならないけれども、この世的政治的なことをあまりに何でもかんでも霊的宗教的なことに無理やり関係づけて考えずに、もっと単純にできるだけ多くの人々や生き物達が最も健康に幸福に豊かに生きてゆけるような社会を目指すような政治を行えるように、そうした国家の主権(統治権)のようなものは、一人一人の国民がしっかり分担して担ってゆくことがとても大切なのではないかと思われます。

 

 続く・・・(多分、少し後に続きになります)

 

Cecye(セスィエ)

2015年10月6日 9:03 PM, 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 社会、文化



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