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光について Part 23

⑥世の中には、多くの人々が守っている普通の善悪の観念とは全く違った善悪の観念を、大した理由もなく、一部の人々だけに適用していることがあるので、注意が必要なところがある

 六つめは、これは少し言いにくい話になるのですが、実は、世の中の善悪というものを見てゆくと、よく考えてみると、特に大した合理的な理由がないにも関わらず、ある人々が、その行為をした場合には、悪になるけれども、そうでない人々が、その行為をしても全く悪とされないとか、ある人々が、その行為をすると、とても善いこととされているけれども、そうでない人々が、それと同じ行為をすると、あたかもものすごい悪のように言われるなどというようなことが、結構、たくさんあるようなところがあるということです。

 具体的に言うと、例えば、未成年だと罪として罰されるが、二十歳を過ぎた成人であれば、いくらでもよいとされている根拠が、本当はよく分からないようなものが結構、世の中には、たくさんあるとか、パチンコとカジノというように、ほぼ同じような性質のものであるのに一方は良くて、一方はダメなものがあるが、これはよく考えてみると、本当は善悪の問題ではなく、単なるこれまでの歴史の成り行きや業界の都合の問題だけなのではないかとか、世の中には、単に古いだけで、大金をかけて維持することが、とても善いとされているものが、結構たくさんあるが、その一方で現実に多くの人々に非常に必要とされている上に、社会を支えるための税金をたくさん払っているのに、それほど善いと言われていないものが、結構たくさんあったりするなどというような話が、世の中には、意外と多いものなのです。

 つまり、世の中には、多くの人々が、あまりその本当の理由や状況を知らないことにつけこんで、普通の人々が行うと、とてつもない悪のように言われるのに、なぜか一部の人々だけは、それをあたかも当然の義務のように行うことができるとか、普通の人々がやると、とんでもない欲ばりや恥さらしのように言われるのに、なぜか一部の人々がそれを行うのは、神聖な義務のように扱われているとか、本当は、誰もが心の中で望んでいるにも関わらず、いつも我慢しているようなことを一部の人々は、様々な地位や特権や義務を利用して、まるで当たり前のように日常的に行っているなどというようなことが、結構、意外とたくさんあるものなのです。

 こうした観点から見てゆくと、まるで神仏や為政者が定めた不動の決まり事のような善悪があったとしても、よく調べてみると、なぜ多くの人々が行うと最低の悪や罪のように言われるのに、一部の人々に関しては、全く悪とも罪とも言われないのか、よく分からないとか、一部の人々が行うことは、ものすごく正しい善のように言われているが、よく考えてみると、その根拠が全然分からないなどというようなものが、世の中には、意外と多いことに気付くのです。

 それゆえ実は、いっけん、まるで絶対的な善悪があるかのように思われるような内容であっても、元々の本来の目的の部分までしっかり考え直してみたり、あるいは、その宗教や国の状況をよくよく冷静に見直してみた場合には、現代であれば、意外ともっと簡単で合理的な決まりややり方に変えることができるかもしれないし、また場合によっては、もっと誰もが単純に納得して守れるような、より簡単な平等の決まりやご褒美や罰則に変更することができたりするかもしれないものなのです。

 

 このように光と闇の関係に象徴されるように、この世界には、いっけん、まるで完全にがっちりと定まった善悪があるように見えるかもしれないのですが、実際には、どんな宗教や国家の善悪であったとしても、その根源的なルーツをたどってみたり、実際の組織や社会全体のあり方を冷静に見てみると、意外と様々な時代や地域の特殊な事情に基づいた一時的な決め事程度の内容に過ぎないこともあるので、こうしたことに関しては、そのそもそもの目的と、現実の組織や社会の状況を冷静に見直してみた上で、最も多くの人々が簡単に守りやすく、また、もっとも幸せに生きてゆけるような決め事に変更してゆくことが、とても大切なのではないか、と思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2014年12月10日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ



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