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太平洋戦争について Part 3

3、太平洋戦争の開戦の詔によれば、当時の大日本帝国の戦争目的は、東アジアの安定による世界平和の実現と、日本の独立の維持と防衛であるとされているが、実際の軍事行動は、全然違うものだったのではないだろうか

 あと、「開戦の詔」の文章を読む限り、「戦争の目的は、東アジアの安定による世界平和の実現と(おそらく、日中戦争の勝利のことだと思われます)、日本の独立の維持と防衛である」とされているようなのですが(とても残念ですが、アジア諸国の独立や開放とは書かれていません)、そうすると、当時の日本は、ただでさえ泥沼化していた中華民国との戦争に加えて、当時、世界の大国であったアメリカやイギリスと、太平洋の西側半分と東アジアの大部分に渡るような、かなり広範囲の地域での全面戦争に突入することになるので、正直言って、それは客観的に見る限り、さらなる東アジアの不安定化と、世界の混乱と、当時の日本の国力以上の軍事力の行使による一種の国家的自殺行為に近かったのではないか、と思われます。

 ですから、もっと簡単に言うと、そうした戦争目的なら、どう考えてみても、単純に手段が間違っていると思われるし、また、きれいごとを並べているだけで、本当の戦争目的は違ったのではないか、ということが推測されます。

 それと「開戦の詔」の文面からは、太平洋戦争は、あたかも明治、大正時代からの日本の国策の延長だったかのように解釈されますが、私は、もし明治時代の政治指導者であれば、戦争終結のための講和の準備もろくにせずに、むやみに戦闘地域の拡大と交戦国を増やすような亡国政策は、絶対にとらなかったと思います。

※もっと正確に言うと、これは、明治時代の政治指導者が偉かったというよりも、彼らは、幕末の動乱の生き残りの人々がほとんどだったので、元々は、かなり理想主義者が多かったと思われるのですが、結局、明治時代に至る前の幕府の弾圧や外国との戦争や、その前後の欧米諸国の視察や留学の過程で、かなり冷静な現実主義的な改革者のような立場になった人々が、ほとんどだった、ということです。

※明治以降の日本の軍事的な基本方針は、欧米との協調外交と、そこからの資源の確保と技術導入を進めながら、当時の日本にとって、直接の軍事的な対立が起きやすかった当時の中国やロシアとの軍事衝突に備える、というようなものだったと思われます。ところが、わりと平和でのどかだった大正時代とは打って変わり、昭和時代に入ると、軍事的なクーデターが起きたり、軍閥が割拠していったり、いろいろな口実を作っては、当時の中国に軍事的な侵略を図っていったり、さらには、そうした過程で日本の外交政策が行き詰まると、今度は、当時の欧米の代表国であるアメリカやイギリス、オランダなどに戦争を仕掛けつつ、さらに中国にも泥沼的に戦線を拡大してゆく、というような大戦争を行っています。これは客観的に見る限り、どう考えてみても昭和時代に、明治以来の日本の国家政策を大転換したということであり、それから、結果として、それは、後の日本やアジアの国々に、本当に致命的なダメージを与えるような国家の破滅路線への切り替えを行った、ということではないでしょうか。

※もう少し後で述べますが、大日本帝国時代の天皇は、今日の日本では、首相、兼、国家教教主(現人神、あらひとがみ)、兼、大元帥(日本軍の最高司令官)のような立場だったので、昭和時代の首相や軍人の変化だけを見てゆくと、何だかよくわからなくなりがちですが、単純に大正天皇は、わりと平和と民主主義推進派だったのだが、次の昭和天皇は、軍拡路線の覇権主義者だったというように理解すれば、日本の近代史は、もっと簡単に理解できるのではないでしょうか(だから、戦後の日本では、形式的な天皇制は残ったけれども、戦前、戦中のような昭和天皇の政治権力は、ほぼすべて取り上げられたので、再び、平和国家を目指せるようになった、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2014年7月26日 2:44 PM, 歴史 / 軍事



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