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霊的に見た日本の神道について Part 9

②神道の場合、心身を清める禊(みそぎ)祓(はら)いは、わりとしっかり残っているのだが、心の過ちを悔い改める回心や懺悔の教えが、完全になくなってしまっているので、それが霊的には、かなり大きな大混乱を巻き起こしていた

 第二には、これは神道をやっている人は、結構、多くの人々が痛感したような内容になるのではないか、と思われるのですが、「神道と言えば、きれいで清潔」、というイメージがあるくらい、神道では、特に清く正しいことには、かなり気を使っていると思われるのですが、問題は、もしそうした清い正しい状態が維持できなくなった時に、いったい、どうすればいいのか、ということが、神道だと、あまりはっきりと示されていないようなところがあることなのです。

 そうした際に、仏教やキリスト教だと、何らかの回心や懺悔(ざんげ)のような手段で、霊的に清めようとすることが多いのですが、これが神道だと、わりとはっきり示されていなくて、これは多少極端な例になるのですが、例えば、武士の世だと、誰かが罪を犯すと、謹慎(きんしん)して、家に閉じこもっているか、もっとひどい場合だと、切腹(自殺)して責任を取るような話ばかりになっているので、明治以降、こうした価値観がそのまま宗教や政治や軍事の世界に持ち込まれてしまうと、いろいろと問題を巻き起こすことが多かったようなのです。

 さて、それでは、こうした際、霊的には、いったい、どのようにすればよいのか、というと、大まかに言うと、次のような二つの方法が考えられます。

 一つめは、今日でも、さまざまな宗教で行われているように、個人として、何らかの霊的な罪を犯した場合には、その人の信仰している神仏、もしくは、そうした神仏の正当な代理人に当たるような人物の前で、その人の罪を告白して、許しを乞うと共に(霊的には、すべて公開でなくても構わない)、また場合によっては、その罪に応じた何らかの罰を受けるか、あるいは、その罪の許しにふさわしいだけの、何らかの罪滅ぼしの行為をすることが大事になります。

 この際に、その罪を犯したとされる人物が、十分に許されたと感じられるのであれば、おそらく、その罪は霊的に許されているのでしょうが、もしその罪以上に、何かとんでもないことをやらされた、とか、強い怒りや恨みを感じているようなら、それはそうした許しの手段が行き過ぎていて、逆にそうした罪を問うたり、罰を与えている側に、何らかの霊的な罪が発生していることになるので、注意が必要になります。

 また、これは他の人々との関係でもほぼ同じなので、他の人に何か危害を加えたり、迷惑をかけたりした場合には、その人に誠意をもって謝り、許しを乞うと共に、それでも相手が許してくれない場合には、その危害や迷惑の程度に応じた、何らかの罪滅ぼしのための行為をすることが、とても大事になります。

 ただし、これは多くの人々の体験上、よく知られていることだと思われるのですが、人間の間のこうした罪の意識や、それを執拗に責め続ける行為には、はっきり言って、ちょっと切りがないようなところもあるので、現代であれば、要は、罪を犯した人が、十分に心から反省して、相手にしっかり誠意をもって、謝罪をしたのであれば、それ以上は、社会的にある程度、妥当とされるような罰を受けたり、何らかの罪滅ぼしに当たるように行為をすれば、この世的にはよしとして、以後は、できるだけ、お互いに愛し合い、許し合い、より良い人間関係を築けるような方向で努力していった方がよいのではないか、というように私は考えております。

 二つめは、これは今日、まだあまり行われていないのですが、要するに、もっと高次の神仏の働きで、その人の霊的な罪を許してもらう、というか、ある程度、打ち消してもらうような方法があるのですが、この場合には、その当人にそれだけの信仰や努力や神仏や他の人々への奉仕がないと、霊的には、かなり難しいところがあります。

 これは、霊界では大変評判が悪いのですが、実は、昔から日本では(外国も似たり寄ったりの状況でしたが・・・)、こうした霊的な罪や汚れをあまり深く考えずに、他の存在に転嫁するのが、もう完全に文化そのものになってしまっているようなところがあったので、それが理由で、特にここ最近まで、日本を含む特に東洋の辺りでは、マイナスのカルマの連鎖がほぼ止まらないような状態で、次から次へと、こっちに生まれ変わったと思ったら、ろくに次の人生の計画も立てられないような状態で、また、あっちに生まれ変わる、というような、とんでもない生まれ変わりの連鎖に入ってしまう人々が、非常に多くなっていたようなところがあったのです。

 その点、日本では、神道のお祓いだけでなく、例えば、仏教でも、「とげ抜き○○」とか、「身代わり○○」などというように、その当人があまり大した努力をすることなく、パッパッとその人の病や苦悩や穢れが簡単に取れる、というような触れ込みの宗教がかなり多かったのですが、当然のことながら、そのような形で、たくさんの人々から、あまり大した注意も払われることなく、取り払われた霊的な罪や汚れ穢れのようなものは、やがて、神仏の世界や自然の世界をぐるぐると還流すると、再び、多くの人々の所にしっかり戻ってくることになります。

 それが今日、個人的な苦難や混乱のみならず、大自然の脅威や社会の混乱のような現象として、多くの人々に知られているのですが、とにかく、日本の宗教の場合、神道にしろ、仏教にしろ、こうした霊的に見ると、かなり超無責任な宗教が多いので、これに関しては、今日でも、天界の神仏の自由性や救済能力を著しく奪うと共に、また彼らの目からは、非常に大きな失望と怒りを持って、捉えられている、ということは、ここではしっかり伝えておきたいと思います。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2013年10月17日 9:06 PM, キリスト教 / 仏教 / 宗教、道徳 / 神道



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