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霊的に見た日本の神道について Part 3

3、江戸時代頃の日本では、どこの神社仏閣に行っても、ほぼ似たような神様仏様を拝んで、ほぼ似たような祈祷や儀式を行ってもらえるような、全国一律の「仏神教」の宗教形態になっていた

 さて、それでは江戸時代頃までの神社仏閣は、いったい、どのような宗教形態だったのか、ということを、ここでもう一度考え直してゆきたいと思うのですが、大まかに言うと、次のような二つのことが言えるようです。

 まず第一には、これは今日の日本人には、かなり簡単に納得できる内容であると思われるのですが、現代と違って、交通機関の発達していない江戸時代頃までの時代は、はっきり言って、何かあった時には、パッとすぐに行くことのできる、いわゆる、自分が徒歩で行ける生活圏内に(当時は、武士や貴族といった身分階級や裕福な商人以外は、移動は原則、徒歩がメインでした)、「祈祷やおまじないであろうが、祭りや七五三であろうが、神様仏様にお願いしたいことは、やろうと思えば、何でも出来る」、というような総合宗教が、どうしても必要不可欠なところがあったはずなのです。

 そうすると、結局、どんな宗教形態になるのか、というと、かなり大きな町や村でもない限りは、その街や村の中心のような所に、ある程度の大きさの寺や社があったとすると、そこに住んでいる人々は、次から次へと、「人づてに聞いた話だと、この仏様はものすごく功徳があって、何でも病気を治してくれるらしい。みんなで寄付するから、ぜひ神社の横にお堂を作って、一緒に祭ってくれないか」、とか、「ああ、あんな遠い伊勢までお参りなんて、とても貧乏人の自分達には一生出来そうもないから、何とか貧乏人の自分達でも、簡単にお伊勢さんに参れるように、寺の横に一緒にお伊勢さんを祭ってくれないか」、などというように、数十年数百年のうちに、あの神様も、この仏様も・・・、という具合に、お堂や社が次々と増えていったのではないか、ということなのです。

 その結果、おそらく、江戸時代の末頃には、たいていの神社仏閣に行けば、あの神様も仏様も、ほぼ全部拝めるようになっていて、その上で、ちょっとお金や暇が出来た人は、大義名分は、町や村の代表としての○○参りだが、本音は、一生に一度の大散財遊楽旅行に出かける、というような宗教形態になっていたのではないか(今と違って、昔の伊勢神宮の周りは、国内有数の大歓楽街になっていたようです)、ということなのです。

 第二には、それでは、その当時、多くの人々は、仏教と神道の間にそれほど大きな違いを感じていたのか、というと、おそらく、そんな感覚はほとんどなくて、どこの宗教や宗派も多少の形こそ違うにしても、数百年にも渡る、今日の歴史には全然残っていないような、たくさんの宗教の間の信者獲得競争の結果、どこの神社仏閣に行っても、ほぼ似たような宗教形態になってしまっていたのではないか、ということなのです。

 実は、これは今日の日本でもほぼ同じようなことが起きているのですが、企業間の経済競争を見てもよく分かるように、あまり直接言葉にこそ出しませんが、たくさんの種類の宗教があった場合、宗教というのは信者があってこそ成り立つものなので、どの宗教も布教によって、信者を増やしたり、減らしたりするような、言ってみれば、信者獲得競争をやっているわけです。

 そうすると、短期的には、パッと人数を増やして、大きくなる宗教もあれば、逆にパッと人数を減らして、小さくなってしまう宗教もあるのですが、ところが、長い目で見ると、これは国家が何らかの宗教の保護や弾圧を行わなかったケースになるのですが、たいてい、競争相手の宗教に多くの人々を魅了するような何らかの良い物があると、それを真似して、自分達の宗教にも取り入れていったり、あるいは、その反対に競争相手の宗教と比較して、自分達の宗教に明らかな悪い部分があった場合には、そこを改善したりしてゆくので、時代が過ぎれば過ぎるほど、そうした競争関係にある宗教のあり方というのは、だんだん似通ったものになってゆきがちだったのです。

 そうすると、江戸時代のような超安定社会の場合、いったい宗教はどのようなものになっていたのか、というと、日本では、それ以前の奈良平安時代からのもう1000年近い仏教との深い関わりがあったので、はっきり言うと、江戸時代の末ぐらいには、神社に行っても、仏閣に行っても、ほぼ似たような神様仏様が祭られていて、祈祷でも、儀式やお守りやお札でも、ほぼ似たような宗教サービスが受けられるような状況になっていたのではないか、ということなのです。

 その上で、そうした競争社会では生き残りのために、必ず何らかの差別化を図るはずなので、「特にこの信仰に関しては、○○神社が一番である」、とか、「特にこの悟りを開くには、○○宗のお経や瞑想が一番である」、などというように、それぞれの宗教独自の違い、というか、かなり大きな特色を打ち出して、それぞれの人の特殊なニーズに応じて、それぞれの宗教が繁栄する、というような宗教情勢になっていたのではないか、ということなのです。

 そうした意味で、江戸時代頃までには、日本中、ほぼすべての地域で、仏教と神道と儒教と道教がかなり融合した形になっていて、ほぼ似たような宗教サービスが受けられる「仏神教」の宗教形態になっていた。つまり、「神様」と言っても、「仏様」と言っても、信仰のあり方としては、それほど違いはないのだが、それらの宗教的な中身や実態としては、実質的に、ほぼ仏教か、もしくは、仏教に近い神道が多数を占める宗教形態が、日本全国を埋め尽くすような状況になっていたのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2013年10月11日 9:03 PM, 歴史 / 神道



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