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幸福について Part 2

2、人間には、幸福を感じ取る能力の高い人と、そうでない人がいるものなのだが、幸福を感じ取る能力を磨けば、どんな環境にいても、それなりに高い幸福感を感じ続けることは可能である

 第二には、これはとても不思議な見方になるのですが、どうも多くの人々を見ていると、幸せを感じるのに非常に敏感な人と、幸せを感じるのに非常に鈍感というか、幸せを感じるのが苦手な人の二通りの人がいるということです。

 つまり客観的に見れば、ほぼ同じような状況にある人であっても、ある人は、いつもとても幸せそうに過ごしているのに、別のある人は、いつも不平不満や愚痴ばかり言って、不幸せそうに過ごしているというようなことが、世の中には、結構数多くあるものなのです。

 その違いの理由を突き詰めてゆくと、幾つかの理由があるようです。

 一つめの理由は、どうも生まれ育った家庭環境の違いのようで、ある人は、両親や家族がとても愛情深く大切に育ててくれたので、自分の幸せを単純によしとして肯定できるのですが、別のある人は、両親や家族からいつも文句やケチばかり言われていたので、そう簡単には自分の幸せを良いものとして肯定できない、つまり、いつも不幸でなくてはならないような少しいびつな精神状態になってしまっているようです。

 二つめには、これは日本だと戦争を経験した世代に多いのですが、要するに戦争前後の時代に大変な飢えや物不足を経験したことのある人は、それ以降の人生では、もう毎日食べ物や物があるだけで、この上ない満足感や幸福感が感じられるのですが、その後の世代の人々になると生まれた時から食べ物や物があるのは当たり前だったので、単純に食べ物や物があるだけではそれほど強い満足感や幸福感は得られず、それよりかはもう一段上の満足や幸福、つまり何らかの感動や豊かさや楽しさや美味しさのようなものを感じた時に非常に強い幸福感を感じるというような感じの幸福感の感じ方になっているのではないかということです。

 三つめは、ちょっとややこしい話になるのですが、こうした形である程度物質的に充足した時代が続いていると、たとえ同じような環境に置かれていても、ある人は、常に非常に強い幸福感を感じられるのに、別のある人は、それほど強い幸福感を感じられないというような状況になることがあるのですが、これは単純に何らかの肉体的、精神的な知恵や技能を学び修めた違いであることがあります。

 つまり普通の人ならかなりショックを受け、へこたれるような状況であっても、何らかの厳しい肉体的、精神的鍛錬(たんれん)をしたことのある人は、それほどショックを受けずに、わりと淡々と軽く受け流すことができるとか、ある程度、粗食や貧しさに耐えたことのある人は、何かあって、ちょっとした食糧難や物不足のような状況になったとしても、それほど動じずにいつもと同じように淡々と過ごすことができるとか、それなりの苦労や厳しい体験を経たことのある人は、ちょっとぐらい厳しい辛いことがあっても、それほど落ち込まずに平静な態度でい続けることができるのみならず、ちょっとした贅沢や豊かな体験で普通の人以上の非常に大きな満足や喜びを得ることができるとか、あるいは、何らかの宗教的、あるいは精神的な修養を修めたことのある人は、少々の出来事があっても、常に平安で穏やかな愛や感謝の心で生きることができるとか、普通の人には、ただのありきたりの平凡な日常生活のように見えたとしても、何らかの学問や教養のある人から見ると、それがとてつもなく興味深い楽しい体験のように感じられるとか、普通の人にはものすごく難しい悩みや深刻な問題のように感じられることでも、その分野の専門知識や技能を磨き、しっかり修得した人から見れば、単に淡々と順番に解決してゆけばよいだけの簡単な仕事や奉仕活動のようにしか見えなくなるなどというようなことが、世の中には多々あるものなのです。

 つまり、たとえ同じような環境に置かれたとしても、そうした何らかの知識や技能を修めた人や、あるいは何らかの肉体的、精神的な鍛錬や修養を修めた人にとっては、別に不幸とも何とも感じない、常に幸福、常に満足、常に充実前進した毎日が送れるようなところがあるのではないかということなのです。

 

 続く・・・

 

 

Cecye(セスィエ)

2013年8月8日 9:06 PM, 人生観、世界観 / 知恵、正しさ



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