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「正しさ」について Part 5

5、一昔前のように宗教や道徳が、単純に「絶対的な正しさ」を決められたような時代からは打って変わって、現代では、「自分も含めて、どれだけ多くの人々を不幸にせず、幸福にしたか」というような、「幸福主義」的な価値観に基づく正しさの時代に、だんだん変化してゆきつつある

 第五には、ある意味で、これが最も重要な内容になってくるのですが、確かに宗教や道徳を一生懸命学ぶと、まるで「絶対の正しさ」というものがあるかのような感覚を持ってしまいがちなのですが、ただ、現実の社会では、「絶対の正しさ」というような観点よりも、どちらかと言うと、「どれだけ自分自身が幸せであったか」とか、「どれだけ多くの人々を幸福にしたか」というような、言ってみれば、「幸福価値」的な物の見方の中で、「これは最も良いと思われるけれども、これは、あまり良いとは言えないのではないか」とか、「これは、かなりベストの状況であると思われるのだが、これは、かなりまずい状況なのではないか」などというように、いわゆる、がんじがらめの掟や決まりのようなスタイルではなく、もう少し人間的な、もっとはっきり言うと、「これは楽しいし、心地よいと感じるけれども、これは楽しいとも心地よいとも感じられない」とか、「これは、とてもきついし、辛いので嫌だけれど、これは、それよりかは少しは楽だから、まだいいか」というような感じの人間的な感覚による良さや悪さによって、「正しいか、間違いか」ということを決めていった方が良いようなケースも、結構多々あるものなのです。

 それが昔からの宗教や道徳だと、「正しさ」や「間違い」というのは、「神仏が決められたから」とか、「昔からの掟や決まりだから」とか、もう少し怖いケースになると、「とにかく、そうしないと祟りがあるから」とか、「前にそれをやらなかったら、誰かが変な事故や病気で亡くなったので怖い・・・」とか、「死後、地獄に落ちるのが怖いから」などというような理由から、「とにかく、こうしないといけない」とか、「とにかく、この時には、これをしてはいけない」などという具合に、物事の正しさや間違いが決められることが、結構多かったようなのです。

 ところが、そうした宗教や道徳的な価値観とはかなり違って、現代の政治や経済や文化の世界では、「この製品やサービスは、とても便利だったのでたくさん売れて、いつの間にか、世の中の正しいスタンダードのようなものになってしまった」とか、「これは本当は、みんな面倒臭くて嫌なんだけど、一部の人々の利益のために正しい大事なことと言われて、みんな嫌々仕方なく従っているだけのようなので、そろそろ何とか変えられないか」とか、「医者の倫理基準や法律に触れない範囲内であれば、命を救えるかどうかはともかくとして、とにかく患者さんの苦痛やストレスを、少しでも減らすのが正しいことだ」とか、「新しいテクノロジーの試みなので、正直言って、神様でもなければ、これが正しいかどうかなんて全然よく分からないんだけど、とりあえず、いろいろ試行錯誤しながら、何をどうすると健康や安全上、問題になるのか調べて、その上で、何を健康や安全上の基準、つまり、正しさと間違いにするか決めてゆくしかないか」とか、「別に全然、悪意はなかったのだが、気がつくと自分の会社の新しく開発したテクノロジーの微妙な問題点を突かれて、いろいろな犯罪に使われるような事態になってしまったので、とにかく自分の会社のテクノロジーを悪用されないように少しでも改善して、悪いことが起きないようにしなくてはいけない」などというように現代の多くの人々は、「何を正しさとし、何を間違いとするか」ということ自体を、日々、いろいろな試行錯誤の中で、その時々において決めたり、変えたり、止めたりしてゆかなくてはならないような状況になってきているのではないか、ということなのです。

 ですから古代や中世のように何十年、何百年と、ほぼ同じような社会の営みが続いていたような時代と違って、現代のような時代には、「民主主義国の一般市民にとっての正しさとは何なのか」とか、「何を自由とし、また何を犯罪として処罰すればいいのか」とか、「市民のモラルとして、何を良いことにして、何を悪いことにするのか」とか、「何を幸福とし、何を不幸にするのか」とか、「何を行き過ぎとし、何をバランスのとれた行為とするのか」などというように、常に常に「何を正しいとし、何を間違いとするのか」、あるいは、「何を善とし、何を悪とするのか」ということを、一つ一つ決めてゆかなくてはならないような時代になっているということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月10日 9:06 PM, 知恵、正しさ



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