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いっけん訳の分からなさそうな一部の人々の「オタク文化」であったとしても、その社会で一方的に全否定するような態度をとっていると、危険なところがある

 さて、そのような近未来の予測に基づくと、知恵ということに関して、いったいどのようなことが言えるのかというと、これは多くの人々にとっては、全く晴天の霹靂のような話にしか全く聞こえないような話になってしまうのでしょうが、要するにそうした近未来では、だんだん人間の知恵というものに、次のような大きく二つの要素が求められるようになってゆくということです。

 

1、現代のマンガやアニメでは、多くの人々の潜在願望や異次元世界の実情が、そのままストレートに表現されることが多いようなので、何でも杓子定規にそうした願望を全否定していると、多くの人々の社会全体に対する潜在的な破壊願望が大きくなってしまうことがあるので、注意が必要である

 まず第一には、これは非常に問題が大きいのですが、現在、日本のような先進国では、普通の大半の人々には、あまりよく理解できないような、かなり特殊な趣味、というか、多くの人々の閃きや欲望の世界を、ほぼ何でもござれという具合に、ありとあらゆる想像のまま、妄想のままにマンガにしたり、アニメにしたりするような「オタク文化」が、だんだん広がってゆきつつあります。

 それでは、こうしたオタク的な価値観というのは、いったいどこから来ているのか、というと、一つは、現代の社会で無前提に否定され、制限され続けていたものを、現代のマンガやアニメやCGなどの技術を使って、一部の若い人々が、自由自在に表現してゆこうとしているということと、それから、もう一つは、これは、あまり良くない話になるのですが、いわゆる、このブログで、いつも述べている仮想現実や並行世界のような異次元世界での多くの人々のとんでもない異常体験の数々を、そうした一部の若い人々が、空想のまま、想像のままに、できるだけ、そのまま忠実に表現しようとしているということです(こうした文化芸術の流れは、ずっと昔からあると思われますが・・・)。

 それでは、これと知恵と、いったい何の関係があるのかというと、長く説明すると、とんでもなく長い話になるのですが、要約すると、もし現代の国家を支配する政治家や役人や学者のような人々が、そうした多くの人々の心の中に抑圧された本音の欲望や不平不満というものを、あまりにも無視して、一方的に全否定するような態度をとっていると、多くの人々の集合想念の中に、「この不自由な不幸を押し付ける社会を破壊したい」というような潜在欲求が溜まってゆき、それが、さまざまな社会の混乱や天変地異の原因になることがあるので、非常に危険なのです。

 それゆえ、できれば、これは、あまり社会が混乱しないような自然な変化の形で起きるのが一番良いのですが、「よく考えてみれば、別に大して誰かを傷つけるわけでもないし、自分自身を傷つけるわけでもない」というような物事に関しては、あまり古くからの宗教的戒律や社会道徳に縛られずに、ある程度、柔軟な形で知恵を使って、少しずつ自由化してゆくとか、ある程度、多くの人々の本音の欲求を叶えてやるような方向に社会全体を変化させてゆくことが、とても大切になってくるのです。

 つまり、宗教的な戒律や社会的な道徳律のようなものが、あまりにも杓子定規に「何でも、こうでなくてはいけない」とか、「人間的な欲望は、なるべく我慢すればよい」というような方向に使われていると、どこかの段階で社会全体が、末永い停滞状態に置かれたり、何らかの原因で、すっかりダウンしてしまうような状況になりがちなので、そうではなく、そこは知恵の観点から、「多くの人々は、表向きは宗教的、道徳的な理由から反対しようとしているが、本当の本音では、そうしたことを求めているようなので、特に犯罪や自暴自棄な行為につながらない限りは、ある程度は、よしとしてゆくか」とか、「よく考えてみれば、これは昔は、別に罪でもなかったようなことだし、ある程度、社会の規範を守って、他の人々に危害を加えたりしないような一定の健康や安全に関するガイドラインさえ守ってくれるのであれば、昔と同じように、ある程度は良いことにしてゆくか」などというように、あまりガチガチに古い宗教的価値観や道徳律に縛られずに、現実の多くの人々の利益や不利益、あるいは、幸福や不幸の観点から、再度、判断し直してゆく視点が重要なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月3日 9:03 PM, 社会、文化



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