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正しい言葉の修得のためには、豊富な実体験と言葉の習熟と十分な会話の回数が必要である Part 2

 第三には、これは、少し珍しい話になるのですが、特に日本語の場合、残念ながら学校で習った話と違って、特に漢字の単語や熟語の中には、「これは、どう考えてみても、漢字の形から単純に想像されるイメージや意味と、実際の言葉の意味や使われ方が、全然違うのではないか」と思われるような漢字が多いので、もし自分が普段、言葉を話していて、「よく考えてみると自分は、この言葉の意味が分かっていない気がする」とか、「なんで、こんな変な漢字が使われているのかな?」などと感じられた場合には、これは辞書を引いても構わないのですが、いつまでも適当に流さずに、「これは普段、自分の使っている言葉のフィーリングだと、こういう意味かな」(つまり、大まかに意訳して、理解し直すということです)とか、「これは、よく考えてみると、あまり関係なさそうな漢字が、幾つか並んだ熟語なんだけど、現代の実際の使われ方としては、こんな意味かな」などという具合に、そうした漢字を含む言葉の意味を、再度、少しよく考え直して、自分自身の言葉で、もう一度、理解し直してみるようなトレーニングが必要なケースもあるということです。

 第四には、「自分が、いつも親しくするような友人は、よくよく良い人を選ぶ必要がある」というような、昔から言われるような人生の知恵からもある程度、明確なように、その人の言語能力は、その人の会話の質や量で決まってくるようなところがあるので、ある程度の言語能力の発達には、どうしても、いろいろな人と、いろいろなテーマで楽しく話すような体験が、とても重要になります。

 会話の相手としては、親や兄弟姉妹のような家族との会話や、学校の教師や同じ年齢ぐらいの人々との会話の他に、できたら何らかの専門分野で活躍している人や、あるいは、ちょっと教養があって、ウィットに富んだ会話のできる人や、何らかの分野で、そこそこ成功した人などと話ができる機会があるとよいのですが(現代の日本には、仕事を引退したシニアの人も含めて、そういう人は大勢います)、要は、こうした会話の訓練というのは、単に人の話を一方的に聞くだけでなく、実際にいろいろな人の意見を聞いたり、自分の考えを話したりするような、実際の会話の訓練が重要なのではないか、ということです。

※そうすると、日本人が、あんなにたくさんの時間、英語を習っているにも関わらず、なぜ、ほとんど話せないのかということの理由は単純で、要は、実際の会話のための機会が、ほとんど用意されていないからということになります。昔と違って現代の日本には、英語の話せる外国人は、ものすごくたくさんいるので、本当は、学校教育のための英語教育ではなく、実際の外国人とのコミュニケーションのための英語教育に切り替えて、それにふさわしい高校や大学の入学システムに変えれば、ほんの2〜3年もあれば、日本人の英語能力なんて、飛躍的に高くなると思います。

※これは、おまけの話になりますが、学校では一年中、中間試験、期末試験と、何度も試験を行って成績をつけているのに、その上、入学試験のように数年に一度、再度、大まとめの試験を行って、高校や大学に入れるかどうか決めるというのは、ものすごく時間的にも、労力的にも、親子ともに負担となるので、この際、小学校も中学校も高校も、全国統一の単位制にしてしまって、例えば、英語5級は、何度受けてもいいけど、受かればそれでよしにして、高校の入学審査には、そのままその資格や点数が使えるとか、学校ごとに作る現在の中間、期末試験の代わりに全国統一の小単位のテストを行うようにして、ある程度、自分が納得できるようなスコアになるまで、何度受けてもいい上に、そのスコアは、そのまま高校や大学の入学審査に使えるというような、もっと風通しの良い簡単な学習システムや入学システムに変えてしまう方法もあっていいのかもしれません。

 

 続く・・・

 

 追伸

 私自身は、子供の頃の家庭環境の問題もあったのでしょうが、20歳過ぎぐらいになって、「子供の頃から学校の国語が苦手だったが、どうも自分は本を読んでも、何となく言葉の意味が分かっていない気がする・・・」ということに気付いて(いわゆる、ハリウッドの有名な俳優の人もなった「失読症」と呼ばれるものだったらしいと思われます)、それ以降、再度、日本語の言葉の意味について、少しでも意味が分からないと、その部分は、深く考え直して、自分自身の実体験と重ね合わせながら、一つ一つ自分にとって、一番分かるような簡単な自分の言葉に置き換えて理解し直す、というような地道な作業を、何年もやっていたことがあります(なぜか理系や芸術系のものは得意でしたが・・・)。

 その時、気付いたのですが、日本語の場合、特に二文字以上の漢字熟語が、学校で習った話と違って、素直な心で漢字の形を眺めてみても(というか、もっと正確に言うと霊的な感じで、その言葉の世界に深く入っていってみても)、「どう見ても、これは象形文字が起源には思えないな〜(つまり、途中で漢字の形が変わったにしても、漢字の意味と漢字の形の関連性があまり感じられない)」とか、「特に二文字以上の漢字の熟語では、はっきり言って、実際に使われている言葉の意味と漢字の意味が全然違うな」とか、「自分の実体験や普段の自分の日常言葉で、パッと手短かに言葉の意味を説明するような訓練をしないと、全然、自分の言葉にならないのだな」などと深く痛感したことがあります。

 つまり、何らかの理由で、普通の一つ一つの言葉の意味が、ちゃんと分からないような人は、結局、いくら辞書を引いて勉強しても、分かったようで分からないようなところがあるので、一つ一つの言葉の意味を、自分自身の体験や理解のレベルに合わせて、一つ一つ深く考えて、理解し直すことが必要だったようなのです。

 

Cecye(セスィエ)

2012年10月10日 9:08 PM, 教育 / 知恵、正しさ



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