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言葉によるコミュニケーションの問題点について

 これは、少し前に言葉について、書いていた時に、一緒に書いた文章になるのですが、今回は、もう少し言葉の性質というものについて、考えてみたいと思います。

 

自分の話している言葉を、相手が、100パーセント理解していると考えるのは、一種の幻想に過ぎないので、言語によるコミュニケーションの際には、できるだけ、お互いに歩み寄り、理解し合うような精神態度が、とても大切である

 まず最初に、これは、どう考えてみても、多くの人々の素朴な誤解であるとしか、全く言いようがないのですが、実は、多くの人々が、何か自分の考えを、言葉で述べたとしても、それが、100パーセント、相手に伝わっていると考えるのは、一種の幻想に過ぎないのではないか、ということです。

 その理由は、二つあります。

  一つめの理由としては、実は、言葉の意味やイメージというのは、実際には、それぞれの人の理解や体験によって、かなり異なっていることがある、ということです。

 例えば、ボール一つとってみても、ある人にとって、ボールと言えば、「ああ、あのサッカーに使う、カラフルな楽しいやつだね。うんうん・・・」、と考えていたとしても、別のある人は、学生時代に、あまりスポーツが得意でなくて、「ああ、あのドッジボールに使う、とんでもなく痛いやつだね・・・」、と考えていたかと思うと、また、別のある人は、社会人になった後、もう毎日のように、工場で、ベアリングのボールばかり見ているので、そんなことは、すっかり考えつかなくなっていて、「ああ、あの小さな銀色のたくさんの金属球のことだな・・・」、などと反射的に思いついてしまう、という具合に、実は、言葉の意味やイメージというのは、それぞれの人の、それまでの人生における、さまざまな知識や体験によって、かなり異なるようなところがあるのです。

 ですから、何となく、一つの言葉を言えば、そのまま、相手が100パーセント、同じように理解している、と考えるのは、言ってみれば、ある種の幻想に過ぎないようなところがある、ということです。

 もう一つの理由としては、これは、あまり考えたことのない話なのではないか、と思われるのですが、実は、言葉の意味やイメージというのは、基本的に、知識だけ、とか、ちょっと本などで、見たり、聞いたりしただけのものは、時間と共に、どんどん忘れ去られてゆき、その反対に、実際に、自分の身で見たり、聞いたりしたり、あるいは、実際に体を動かして、覚えたものに関しては、結構、かなり長い期間に渡って、覚えているようなところがあるのです。

 ですから、そうした目で見てみると、現在の日本の教育のように、あまりにも長時間に渡って、テキストを見ながら、一方的に話を聞かされたり、ちょっと実習をする程度の学習というのは、本当は、かなり無駄が多いものになりがちである(社会に出ると、すぐに使うような実習物の内容は、かなり役に立つのですが、使わないものは、片っ端から、どんどん忘れてゆきます・・・)、ということなのです。

 ですから、もっとはっきり言うと、現在、言葉を話している多くの人々の中には、表面的な上滑り的な、単なる単語や文字の塊の羅列のようなものとして、言葉を話したり、書いたりしている人々と、それから、それぞれの言葉の意味を、ある程度、深く考えたり、自分の実体験と結びついて、しっかりと理解した上で、言葉を話したり、書いたりしている人々の、大きく二種類の人々がいるので(程度の違いはありますが)、実際には、単に言葉を話したり、書いたりしたからと言って、それが、100パーセント、相手に、その言葉通りの意味が伝わっているとは、限らないようなところがあるのです(それで、スピリチュアル・メッセージのような短い文章は、いっけん、分かりやすくて、良いのですが、誤解を招くことも多いようなので、結局、途中で、お休みにしてしまいました)。

 こうした二つの理由から、実は、多くの人々が、話している言葉が、本当に、相手に、100パーセント伝わっているかどうかは、実際には、なかなか分からないようなところがある、ということなのです。

 

 ですから、相手が、自分に対して、伝えようとしていることや、あるいは、自分が、相手に伝えようとしていることは、できるだけ、お互いに歩みよって、理解し合おうとするような精神的な態度を持つことが、とても大切なのではないか、と私は考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2012年7月25日 9:14 PM, コラム / 教育 / 知恵、正しさ



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