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アセンションの進行に伴い、宗教的「苦行」の時代から、霊的、この世的「楽行」の時代へ、大きく変化してゆきつつある Part 4

②霊的宇宙的には、一人一人の意識は、より大きな人類の集合意識につながっているようなところがあるので、誰かの苦行が、別のたくさんの誰かの苦痛や不幸の創造に直結することになったり、地上の世界では、結構、やりがいを感じられるような苦行も、死んだ後、霊界に行くと、あまり重要視されないようなところがあるので、若干、霊的な意義としては、疑問なところがある

 第二には、これは、さらに、ちょっと訳の分からないような話になってくるのですが、実は、霊的宇宙的に見た場合には、多くの人々の意識というのは、もっと大きな人類としての集合意識のような形でつながっているので、基本的には、誰かの苦しみは、みんなの苦しみとなり、その反対に、誰かの悦びは、みんなの悦びになるようなところがあるはずなのですが、それが、現在の地球のように、分離の原理の支配している世界では、たとえ、地上の世界のどこかで、ものすごく苦しみや悲しみに暮れるような人々がいたとしても、すぐ側にいる人にすら、それが、全然、分からない、とか、あるいは、その反対に、地上の世界のどこかで、とんでもない贅沢や快楽に溺れるような生活をしている人々がいたとしても、多くの人々は、そうした人々の存在にすら、全く気付かない、というような状況になってゆきやすかった、ということなのです。

 ところが、それは、この地上の世界の人々の感覚だけに限られた話になるので、たいていの人は、何らかの機会に亡くなって、「霊界」と呼ばれる所に行くと、つい昨日まで、全く気付かなかった家族や友人の深い愛情や悲しみを、ものすごく身近に感じられるようになったり、あるいは、生前には、全く、気付かなかった、社会の中の隠れた悪のようなものに気付いて、ものすごく憤る、というようなことが、結構、日常茶飯事のように起きるようなところがあるのです。

 そうすると、こうした霊界と、地上の世界の間では、いったい、どのような感覚の変化が起きるのか、というと、霊界にいると、時折、地上の世界のことを思い出しては、「ああ、あれもしたかった・・・」、とか、「これも、本当は、やろうと思えば、出来たはずなのに・・・」、などと、散々、心の底から後悔するようなことがあったとしても、それでは、いざ、そうした過去生のカルマの清算のために、そうした過去生で、何らかのカルマを抱えた人々と、再び、地上の世界で巡り会って、人生のやり直しをしようとすると、なぜか、あれほど霊界にいた時には、ものすごく堅い決意で臨んだ、人生の問題のようなものにぶち当たった時に、心の奥では、「そう、ここで、この人と、心からの和解をして、お互いに愛し、愛されるような人間関係を築き直すんだ」、と思ったとしても、実際の行動では、「ああ、あの人、ちょっと気難しそうだし、なんか、苦手だな〜」、とか、「いや、勉強や仕事や家事が忙しくて、そんな人と付き合っている暇、全然、ないや!」、などというような感じで、瞬く間に、数年、数十年と、時間が過ぎてゆき、気がつくと、ほとんど何も解決していなかった、とか、あるいは、心の奥では、「自分は、この社会の不正に対して、真っ正面から対決し、後世への禍根(かこん)を断つぞ」、と思ったとしても、実際の行動では、「そんな偉い人に、何も問題なんて、あるわけないじゃない」、とか、「この不況で、仕事が大変で、お金も時間もないのに、そんな訳の分からないような、バカバカしいこと、誰がやるもんか」、などというような感じで、やはり、瞬く間に、数年、数十年と過ぎてゆき、気がつくと、同じような社会の問題が、結局、次の世代にも、次の世代にも、同じように残ることになってしまう、というような状況になりがちであった、ということなのです。

 つまり、基本的に、愛や統合の理念の支配している五次元以上の霊界では、すぐに分かり、すぐに気付くようなことが、暗闇や分離の理念の支配している地上の世界では、全く理解することも、気付くことすらもできなくなる、ということなのですが、それでは、そうした観点で見た時に、先ほど述べたような、「苦行」というのは、いったい、どのような位置づけになるのか、というと、これは、たいていの人は、地上に生まれてくると、本当に何が何だか、よく分からなくなるような話になってしまうのですが、実は、地上の世界にいて、苦行というものをやっていると、たいてい、結構、ものすごい達成感や充実感を感じられるようなところがあるのですが、ところが、そうした人々が亡くなって、霊界に行くと、なぜか、そうした人々の大半は、「なぜ、自分は、あれほど、一生懸命、地上の世界で、苦行に打ち込んでいたのか、よく分からない」、とか、「確かに、苦行で、他の人々の痛みや辛さというのは、よく分かるようになったが、よく考えてみると、そんなことは、特にしなくても、普通に人生を営んでいれば、それなりの苦労や辛さは、普通に味わったはずなので、そんなに好き好んで、苦行に打ち込まなくても、そうした努力を、もっと自分自身を精神的に高める、とか、他の人々に奉仕することのために、もっと積極的に使えたのではないか」、などと、結構、真剣に考え直すことが多いようなのです。

 ですから、こうした観点から見ると、実は、霊的に見た場合には、苦行を行うことによって、自分自身のみならず、他の人々や生き物達に対してまで、苦痛や我慢を強いるような生活をするよりかは、もっと単純に、霊的な瞑想に励む、とか、他の人々や生き物達のために奉仕する、というような生活を送った方が、霊的には、より正しいようなところがある、ということなのです。

 このように、「苦行」に関しては、これは、霊界でも、その人の生前の宗教や経験によって、一人一人、かなり意見や考え方が異なるような話になってきてしまうのですが、大まかに言って、だいたい、3割ぐらいの部分は、確かに良いと言えるようなところもあるが、残りの7割ぐらいの部分は、かなり問題が多い、というような見方をされている、というのが、実情なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年7月22日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳



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