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現在伝わっている「仏教」は、肉体的欲求の否定や、悟りの不明確さや、カルマ上の混乱などの点で、霊的に見た場合、かなり問題が多かった Part 2

2、そもそも仏教で説かれている「悟り」は、あまりに抽象的で曖昧なところがあるので、後世、それに乗じて、次から次へと仏教に似て非なる、たくさん新宗教が乱立してゆくことになった

 第二には、これも考えてみれば、当然の話になるのですが、仏教で説かれている「悟り」が、あまりに抽象的で曖昧すぎるということです。

 これは、現代人に分かるような、もっと簡単な言葉で言うと、「私は、ものすごい体験をした」とか、「私は、あなた方が全然、理解できないような、ものすごく偉大な仏(神)になった」とか、「私は、まだ誰も体験したことのないような、ものすごい叡智を得た」などと一生懸命、誇大宣伝しているだけで、実際には、正直言って、何のことだか、よく分からないようなところが非常に多かったのではないか、ということなのです。

 これは逆に言うと、後世、どんな人でも、「私は、偉大な悟りを開いた」とさえ言えば、どうにでもそれらしく、ものすごい自己宣伝を吹聴してゆけるような、いわゆる、オリジナルの仏教とは似て非なるインチキ教やトンデモ教が、こうした教えの下では、はっきり言って、次から次へと、いくらでも作れるような状況になってしまうということなのです。

 ですから現代人としては、こうした誇大宣伝が多い宗教に関しては、少し冷静に距離をとって、「ところで、その悟りというのは、実際には、いったい何なんですか?」とか、「結局、あなたは、どんな体験をしたのですか?」などというように、誰にでも分かるような簡単な言葉で、はっきりと説明してもらうようにしておかないと、本当は、ちょっと危ない要素が多かったのではないか、ということです。

※もちろん、仏教の僧侶や信者の中には、しっかりとした信仰を持ち、非常に厳しい精進をされている方も、たくさんおられると思うので、これは決して、仏教のすべてが間違いで、仏教のすべてが問題であると言っているわけではないのですが、ただ、よく考えてみると、仏教で言われている悟りの多くは、多くの人々が、「凡夫の自分には、とても考えられないような、ものすごい悟りらしい!」とか、「努力が苦手で、頭の悪い自分には、とても全く理解できないものだ!」などと、かなり誇大妄想的に高く高く持ち上げているわりには、非常に意外なことに、そうした「悟り」そのものの具体的な中身や体験というものに関しては、あまり深く調べたり、考えたことがない人が非常に多いようなのです。ですから、仏教の究極の目的である悟りの中身や体験というのは、いったいどんなことなのか、ということを、もう少し冷静に調べたり、考えてみたりすることが、時にはとても大切なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

 追伸

 それと、これは、この物質世界の周りの目に見えない霊界ではない、いわゆる仮想現実の世界の実情というものが分からないと、なかなかよく分からなかったのではないか、と思われる内容になるのですが、実は、これまでの地球では、特に千年以上前の時代に関しては、多くの人々が、幸福を感じたり、心地よいと感じたりすると、その時、一緒に反世界的な並行世界の体験として、非常に痛いとか、苦しいというような不幸な体験をしていることが非常に多かったり、あるいは、その反対に多くの人々が不幸を感じたり、心地悪さを感じたりすると、その時、一緒に反世界的な並行世界の体験として、非常に楽しいとか、気持ちいいというような幸福な体験をしていることが非常に多かったのです。

 その結果、多くの人々は、いつの間にか、何となく無意識のうちに、「幸福にはなりたいけれど、あまり最高の幸福は求めないで、普段は、なるべく地味に、ちょっと不幸な程度の無感覚な状態で生きていた方が、まだいいかな・・・」とか、「不幸になるのは嫌だけど、ものすごい幸福を得ると何となく怖く感じるので、もうこうなれば、普通の幸福は求めずに、この世的に不幸な状態に心身共に慣れ親しむような、ちょっと厳しい労働や修行をずっとやっていた方が、まだいいかな・・・」などというように、はっきり言うと、表向きは幸福の追求、されど、よく考えてみると、その実態、というか、本質は、不幸の追求を目指すような仕事や生活の仕方や、宗教的な修行が、ものすごく多くなっていたようなのです(古い時代になればなるほど、苦行が流行ったのも、それが理由だと思われます)。

 ですから、特に古代に発祥したとされるような仏教に関しても、他の似たような宗教と同じく、こうした表向きは、幸福の追求、だけど、その実態というか、本質は、どちらかと言うと、不幸の追求を目指すような修行のあり方になっていきやすかったのではないか、というのが、私の見解になります。

 ちなみに現在は、アセンションの進行と共に、こうした反世界的な並行世界は、どんどん縮小傾向にあるので、多くの人々は昔と違って、だんだん裏表がなくなり、自分の心からの本心に基づく幸福の追求を目指すような方向に、だんだん社会全体の潮流が移り変わってきているようです。

 

Cecye(セスィエ)

2012年5月10日 9:02 PM, 仏教



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