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イエスについて Part 42

3、霊的宇宙的に見た場合、苦痛や辱めを受ける、偉大な霊的なマスターの肖像を拝むような宗教形態は、本来の意図に反して、そうした霊的なマスターや、その信者達自身を、霊的に封印してしまうようなマイナスの効果があるので、気をつけないといけないようなところがある

 第三には、これは、霊的宇宙的には、完全に明らかな事実であるのですが、実は、そうした偉大な霊的なマスターのような存在が、十字架上で苦しみ続けているような絵や像を拝み続けるような宗教というのは、霊的に見た場合、そうした宗教を信じている人々を、霊的に救済するというよりも、どちらかと言うと、そうした信者達を、霊的に封印してしまうのみならず、そうして拝んでいる霊的な存在自身をも、霊的に封印してしまうような、非常にマイナスの効果があるのです。

 つまり、宗教には、必ず、多くの人々が、礼拝する、何らかの神仏の象徴のようなものがあるものなのですが、そうした礼拝の象徴が、いつも苦しみ続けている神仏の象徴や、あまりにも汚いグロテスクな絵や像のようなものになっていると、霊的に見た場合、真実の光の創造主である神仏には、そうした祈りや瞑想は届かずに、そうした絵や像が象徴する、苦痛や悲しみや、汚れや暗黒の世界につながっていってしまうような霊的な逆効果があるので、本当は、霊的に見ると、非常に危険なところがあった、ということなのです。

 これは、簡単な霊的な実験をしてみれば、すぐに誰にでも分かるような内容なのではないか、と私は思うのですが、深呼吸しながら、自分の心を、少しずつ穏やかにしてゆき、その上で、十字架にかかったイエスに、自分の意識を合わせた場合と、そうではなく、そうした十字架とは全く関係なく、天にあるイエス自身に、自分の意識を合わせた場合の両者を、冷静に比べてみると、前者が、非常に暗い、悲しい気分になって、自分自身も沈み込んでゆくような感覚がするのに対し、後者は、非常に明るく、幸せな気分になってくるので、私は、霊的に見た場合、こうした苦痛や悲しみを中心に、神仏を求めるような態度は、本当は、かなり危険なのではないか、というように率直に感じております。

 

霊的に見ても、論理的に見ても、「イエスが、十字架にかかることによって、その信者達が、許しや救済を得ることことができる」、というような贖罪説は、全くの間違いである

 つまり、現在の多くのキリスト教の人々は、本当は、天上の神やイエスを愛し、素直に受け入れることによって、霊的な許しや救いの感覚を得ているだけであるのに、それとは、基本的に何の関係もない、イエスの十字架上の死による許しや救済を、一方的に強く信じ込むことや、あるいは、そうした悶(もだ)え苦しむイエスの絵や像を拝むことを、あまりにも大々的に行い過ぎている、という点において、本当は、かなり大きな問題があるのではないか、ということなのです。

 ですから、私は、こうした三つの観点から考えてみる限り、現在までのキリスト教において、非常に広く信じられてきた、神のひとり子であるイエスが、十字架にかかることによって、すべての人々の罪があがなわれた、というような贖罪説というのは、霊的に見ても、論理的に見ても、原則、全く、つじつまが合わない、というか、原則、全く不可能なことなのではないか、というように率直に感じております。

 

Cecye(セスィエ)

2012年3月15日 9:11 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界



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