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多数決の原理について Part 5

 前に書いていた「多数決の原理について」の話の続きです。

 

3、人類の歴史で繰り返し起き続けた民主制の後退の歴史を何とか未然に防ぎ、末永く最大多数の最大幸福が実現できるような民主政治を維持してゆくためには、空理空論ではない地に足をつけた市民教育の実施と、政治の世界と普通の一般市民の間の境界を、できるだけなくし続けてゆくような地道な努力と活動が不可欠である

 第三には、これも、たいへん厳しい話になるのですが、人類の歴史を見る限り、民主主義の歴史というのは、意外と短いケースが多くて、せっかく大勢の普通の市民が直接、政治に参加できるような民主制になったのに、気がつくと、ものすごい権力を持った独裁者や軍閥などが、いつの間にか政治の世界を、ほぼ完全に牛耳るような事態になってしまうケースや、あるいは、そもそも、そうした民主制になる以前に巨大な権力を持った国王や皇帝が統治している政治体制が、いろいろな経緯を経て、たくさんの貴族や有力商人などが国政に参加する「半民主制」のような形になったにも関わらず、その後、現代のようなたくさんの市民が参加する形の民主制には全然発展せずに、また再び国王や皇帝が非常に巨大な権力を持って、統治するような中央集権国家に逆戻りしてしまうようなケースが、人類の歴史では、非常に多かったということなのです。

 それでは、その理由は、いったい何なのか、というと、これは、たいへん残念な指摘になるのですが、私の見るところ、実は、大部分の普通の人々は、民主政治が何なのかということを、あまりよく理解できていないということと、それから実際問題として、大部分の普通の人々は、自分の仕事や生活があまりにも忙しすぎて、そうした政治に関わっているような時間も関心も、なかなか見いだせないというのが、その直接の理由になっているようなのです。

 つまり、人類の歴史において、繰り返し繰り返し起こった民主制の後退というのは、多くの人々の政治への無知と無関心によって、何度も何度も巻き起こってきた、ということなのですが、それでは、その解決策としては、いったい、どのようなものが考えられるのか、というと、大まかに言うと大体、次のような二つのことが言えます。

 まず第一には、これは考えてみれば、当然のことなのではないか、と思われる内容になるのですが、とにもかくにも多くの人々が、まだ若くて、時間があって、頭が柔らかいうちに民主的な政治運営というのは、いったい、どのように行ってゆくべきなのか、ということを、できるだけ分かりやすい形で、よく理解しておく必要があるということです。

 第二には、これも考えてみれば、当然のことであるのですが、多くの人々の仕事や生活の一部に政治的な内容を取り入れて、多くの人々が否応(いやおう)なく、政治のことに関心を持たざるを得ないようにしてゆくことが、とても重要なのではないか、ということです。

 それでは、そのために具体的に何をすればよいのか、というと、これはよく考えてみると、現代の日本を初めとするような形式的民主制の国では、まだあまり実行されていない内容になるのですが、大体、要約すると、以下のような10の内容になります。

 

1、長い君主制の話ばかりの歴史教育はやめにして、フランス革命やアメリカ革命以降の民主制の発達の歴史を、世界史的な観点から教えてゆくような市民教育に変更する

 まず第一には、これは別のところでも何度か述べましたが、とにもかくにも一般市民の義務教育の段階では、長い長い君主制の歴史の話はほとんど止めにして、近現代以降のフランス革命やアメリカ革命以降の民主制の発達の歴史を、世界史的な観点から具体的に教えてゆくことです。

 この際に大切なのは、「多くの人々の意思や働きとは全く関係なく、歴史は偉い人の活躍で、いつの間にか出来上がってゆくものだ」というような歴史観ではなくて、「歴史というのは、一人一人の市民の地道な努力や活動によって、みんなで作り上げてゆくものだ」というような歴史観をしっかり持てるようにしてゆくことと、それから「○年に○○が起きた。暗記せよ」というような暗記主体の教育は、政治的な愚民化教育につながるのでやめにして、そうではなく、「こういう背景で、こういう出来事があったが、もし君が、この時の首相だったら、どうするか」とか、「こうした事件の時、我が国では、こうなったが、外国では、こういうケースもある。民主主義国の市民の最善の選択としては、どうするべきか」などというように、民主主義国の市民にふさわしいケース・スタディーのようなテーマの話題をたくさん用意した上で、自分達が、主体的に政治的な決定に参加するような形の市民教育に変える必要があるということです。

※現在の日本の学校教育では、市民教育のことを「公民」(私は学生時代、何の意味だか、全然分かりませんでした・・・)という名称で教えているのですが、辞書で「公民」や「公」の意味を引くと、一時代前のとんでもない意味ばかりが出てくるので、別に国家の民でもなければ、天皇や朝廷の民でもなく、また社会の民でもない「国民主権」の現代日本の市民教育の名称としては、私は公民ではなく、「市民」という名称の方が、よりふさわしいのではないか、と率直に考えております。

 この場合の「市民」とは、すべての国民が、等しく平等な権利を持つと同時に、責任を持って国政に参加し、政府を運営してゆく自立した個人であるというような意味になります(詳しくは、「日本国憲法」の「国民の権利及び義務」のところを参照してください)。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年11月12日 9:12 PM, 政治 / 教育 / 歴史 / 社会、文化



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