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宗教的価値観に基づく絶対的な正義と悪や善と悪の時代から、民主的な最大幸福実現のための相対的な正義と悪や善と悪の時代へ Part 2

②誰か偉い人の発言や、仏典や聖書やコーランや法律書といった文章に基づく正義と悪や善悪の基準をとると、いつの間にか非常に硬直した不自由で不幸な社会になってしまうことがあるので、そうした発言や文章中心主義よりは、できるだけ、そうした発言や文章の中の真の目的や理想にそった形で、その場所や、その時や、その人や、その条件等に合わせて、正義(正しさ)と悪や善と悪を決めていった方が、より自由で幸福な素晴らしい社会になってゆくのではないだろうか

 第二には、これも非常に問題が多い内容であるのですが、とにもかくにも、こうした「正義」と「悪」や「善」と「悪」という問題に関しては、誰か偉い人の発言や、聖書やコーランや法律書といった誰かの発言や文章中心の立場をとると、どこかの段階から非常に融通の効かない硬直化した決定ばかりがまかり通る独裁的、あるいは、強権的な権力体制が敷かれるようになってゆき、結果的には、そうした誰かの発言や文章中心主義のような立場をとっている国や体制というのは、多くの人々を非常に不自由で不幸な状況の貶めていってしまうことが、非常に多かった、ということなのです。

 それというのは、そうした誰か偉い人の発言や聖書やコーランや法律書に基づいて、何らかを判断する、ということ自体は、それほどあまり問題ないのですが、ただ前にも述べたように、基本的にどんなに素晴らしい「真理」と称する内容であったとしても、その場所や、その時や、その人や、その条件等によって、その「真理」と称する内容は、その状況に最も適合した最高の真理となることもあれば、その反対に、その状況には、最も合わない最低の結果しかもたらさないようなことすらある、というのが世の中の現実であるようなところがあるので、それゆえ、どんな素晴らしい聖人のような人が述べた発言や神聖な聖典のようなものに書かれている文章であったとしても、絶対に、それらをまるで何にでも効く万能薬のような扱いにはせずに、その場所や、その時や、その人や、その条件等によって、常に最も正しい解釈で最も正しい判断をし続けてゆくようにしてゆかないと、実際問題として、そうした法律主義のような考え方を全国通津浦々で押し進めてゆくと、とんでもない独裁体制や、とんでもない最低不幸社会になってしまうことすらある、というのが現実なのではないか、ということなのです。

 それでは、いったい、どうすればよいのか、というと、これは、わりと簡単な結論なのですが、要するに結論だけ言うと、もし誰か偉い人が言った発言や聖書やコーランや法律書のような文章があったとしても、常にそれらをそのまま字義通り実行しようなんて馬鹿な真似はやめて、そうではなく、常にそうした発言や文章の中の要約された要点、つまり、「その本人としては、いったい何を理想や目的にして、その発言をしたのか、」、とか、「それは、いったい、どのような効果を狙って、なされた発言や文章だったのか」、とか、それから、「その発言や文章は、いったい、どのような状況で、どのような意図でもって、なされたものなのか」、とか、「それでは、その発言や文章が意図しない内容や通用しない状況は、いったい、どういう状況なのか」、ということを偉い宗教家や法律家ばかりでなく、普通の信者や一般市民も、時々、自分自身の頭を使って、自分自身の簡単な言葉を使って、単純に要約し直してみたり、考え直すような訓練をしておくことが、とても大切なのではないか、ということなのです。

 つまり、「この人が、こう言ったから、これが真実で正義で善!」、とか、「この聖典に、こう書かれているから、これが嘘でインチキで悪!」、などというような単純な機械的な物の見方はせずに、そうではなく、常にその時々の全体的な状況を冷静に把握した上で、「あの聖者の考え方から推定すると、あの聖者が今生きていれば、この発言とは逆のこういう発言をしているはずだ」、とか、「あの文章は、こういうことが目的で書かれた内容なので、この状況は全く逆なので、あの文章の内容は、ここでは、全然、無視しても構わない」、とか、「これは、多くの人々を幸せにすることが目的で決められた法律なので、現在の時点では、多くの人々に不利益や不幸を与えていることの方が遥かに多いので、もう廃止すればいい」、とか、「そもそも、あの偉人は、こういうことが目的で、この発言をしたので、この段階では、この発言の趣旨からすると、別のこういうことをやった方がずっと良いのではないか」、とか、「確かに昔は、あの偉人の業績は素晴らしかったのかもしれないが、もう現代では、別のあの人の意見の方が、遥かに現代人には分かりやすく真理を説明しているので、ここは単純にあの人の意見を採用した方がよい」、などというように、常にその場、その時、その人、その条件等に合わせて、できるだけ客観的かつ全体的かつ公平に、多くの人々や生命達の利害関係や幸不幸の状況をよく見定めた上で、「正義(正しさ)」や「悪」、とか、「善」と「悪」というものを、わりと相対的な観点で、その時々に決めてゆけばよいのではないか、ということなのです。

※法律に関しては、別の所で、すでにたくさん述べているのですが、要するに「憲法や法律を作るのは大変なので、いったん、できたら、それでおしまい」、とか、「憲法や法律は完璧な文章のはずなので、できるだけ、そのままで何も変えない方がよい」、というようなスタンスではなくて、「状況が変化したら、それに応じて、多くの人々が、最も幸福で利益が得られるような形に憲法でも法律でも、どんどん変えてゆく」、とか、「もし多くの人々の仕事や生活に不便をもたらしたり、被害や不幸をもたらすような法律や、それに基づく制度がある場合には、できるだけ速やかに、そうした法律や制度はどんどん変えていったり、場合によっては、廃止してゆけばよい」、というようなスタンスになります。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年11月5日 9:22 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 政治



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