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歴史教育は、その国や地域の多くの人々の価値観や世界観を決める、まるで宗教のような影響力を持っているようなところがあるので、民主主義国の市民としては、非常に厳重な注意とチェックが必要である

 今回は、歴史教育についての話になります。

 

1、歴史を学ぶということは、ある一定の価値観や世界観を提示する宗教的な考え方を受け入れるのと、あまり変わりないようなところがある

 まず第一には、その国の歴史を学ぶことは、「自分達の祖先は、いったい、どのような生活をしてきたのか(よく考えてみると、本当は、祖先でもないことも多いのですが)」、とか、「自分の住んでいる国や地域は、いったい、どのような所だったのか」、ということを知ることになるので、これは、言葉を変えると、「自分達は、今どんな世界に住んでいるのか」、とか、あるいは、「自分は、今後、いったい、どのような生き方をしてゆけばよいのか」、ということを間接的に決めることになるような一種の宗教を学ばされているようなところがある、ということです。

 それというのは、宗教というのは、基本的に、「自分達は、いったい、どのような存在なのか」、とか、「自分達は、いったい、どのように生きてゆけばよいのか」、とか、それから、「何が正しいことで、何が間違っていることなのか」、ということを多くの人々に教えてゆくような存在であるので、こうした観点から見ると、実は、歴史を学ぶということは、それは、言葉を変えると、ある意味で一つの宗教とも言えるような一定の価値観や世界観を受け入れたのとほとんど同じである、というように考えることも出来る、ということなのです。

 

2、歴史の話には、必ず、何らかの主人公に当たる存在がいるので、その主人公が誰なのか、ということによって、そうした歴史を学んだ人々の人生が、実際に大きく左右されてゆくようなところがある

 第二には、これは、どんな歴史を学んだとしても、基本的に一緒であるのですが、歴史には、必ず主人公に当たる存在がいるので、自分が何らかの歴史を学ぶ際には、常にその歴史の話では、いったい誰が主人公なのか、ということには、よくよく注意する必要がある、ということです。

 大きな分類としては、大体、三つぐらいあるのですが、まず第一に王制や貴族制や、あるいは、民主制でも独裁制の国でよくある歴史の主人公としては、その国の由緒ある国王や貴族や独裁者が、その国の歴史の話の全編を通じて、常に一種の主人公のような扱いを受けていることが多い、ということが言えます。

 第二には、これは、民主主義国でよくある歴史の話になるのですが、基本的にそうした民主主義国では、昔の国王や貴族や、近現代の独裁者は、一種の悪者のように描かれていることが多くて、その反対に多くの名もなき民衆の活躍や彼らのリーダーだった人々が、その国の歴史の主人公のように説明されていることが多い、ということです。

 第三には、これも、よくある歴史観になるのですが、そうした王制や貴族制や独裁制でもなく、また民主制でもない、もう一つの歴史の形態として、いわゆる、さまざまな宗教で教えている歴史の話があるのですが、この場合には、たいてい、何らかの神仏や、あるいは、そうした神仏の教えを説いた宗教家の人々を、そうした歴史の主人公のように扱って、説明していることが多い、ということです。

 そうすると、いっけん、どこの国でも、ほとんど同じように教えているはずの歴史の話には、よく考えてみると、その主人公に当たる中心の存在が、国王や貴族や独裁者のような人々になっているのか、それとも普通の一般大衆や彼らから選ばれたリーダーになっているのか、あるいは、神仏や宗教家になっているのか、というような非常に大きな違いがある、ということは、世間の隠れた常識として、ある程度、理解しておく必要がある、ということなのです。

 そうすると、ここで他の国々の人々から見ると、かなり奇異に感じられるようなことが起きるのですが、まず第一の王制や貴族制や独裁制の国の歴史教育を受けた人々というのは、なぜか大人になっても、そうした国王や貴族や独裁者がいるのは、至極当たり前のことで、大多数の普通の人々と彼らの生まれや生活が違うのは、ごくごく当たり前のことなのではないか、というように考えてゆきやすい、ということです。

 また、第二の民主制の国々の歴史教育を受けた人々というのは、たとえ、そうした国王や貴族や独裁者の人々がいたとしても、基本的に彼らを特別視した見方は全くせずに、たまたま少し生まれや生活が違うだけで、彼らも大多数の普通の人々と、基本的に全く同じ種類の人間なのだ、というような見方をするようになる、ということです。

 それから、第三の宗教的な歴史教育を受けた人々というのは、これは、その中身によって、結構、大きな差があるので、そう簡単には、一概に言えないようなところがあるのですが、基本的には、何でも神仏中心、あるいは、そうした宗教の指導者中心の価値観や世界観を持ちやすい、ということです。

 そうすると、第一の王制や貴族制や独裁制の国の歴史教育や、宗教的な歴史教育を受けた人々というのは、一般的に何かあると一般市民ではなく、誰か目上の人々に、とにかく、従順に付き従ってゆくような考え方や行動をとってゆきやすいようなところがあるのですが、そうではなく、第二の民主制の歴史教育を受けた人々というのは、何かあったとしても、多くの人々が、みんなで責任をもって、国家の運営や社会の維持を行ってゆこう、というような考え方や行動をとってゆきやすくなってゆくようなところがあるのです。

 

歴史教育というのは、まるで一種の宗教の教えのように、その国や地域の多くの人々の価値観や世界観を決めてゆく非常に重要なファクターになっているので、民主主義国の市民としては、非常に厳重な注意とチェックが必要である

 このように多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、実は、歴史教育というのは、まるで一種の宗教的な教えのように、多くの人々の価値観や世界観を決めてゆく非常に重要なファクターになっているので、それゆえ、民主主義国の市民としては、こうしたその国や地域の歴史教育に関しては、どこの誰ともよく分からないような偉い人達に任せっきりにするのではなく、非常に厳重な注意とチェックが必要なものである、ということは、私は、よくよく知っておくべきなのではないか、というように考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月20日 9:25 PM, コラム / 人生観、世界観 / 政治 / 歴史 / 社会、文化



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