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現代日本の歴史教育は、民主主義国の市民の歴史教育としては、かなり問題があるのではないか Part 3

4、民主主義国の市民の歴史教育としては、ある歴史の出来事に対して、一人一人の個人が、いったい、どのように考え、どのような見方をするのか、ということは、基本的に全く自由であるはずなのに、そうした個人の立場を認めていない現代の日本の歴史教育は、一昔前の王制か、独裁国家の歴史教育とさほど違いがない

 それから、第四には、これも民主主義国家としては、非常に問題がある歴史教育なのではないか、と思われる内容になってくるのですが、本当は、「一つの国や地方における歴史の見方が、たった一つしかない」、とか、「国の教えた、ただ一つの歴史の話を全国民が、まるで当たり前のように信じ込んでいる」、とか、「歴史には、ただ一つの正解しかない」、などというような歴史の見方というのは、一昔前の王制か、独裁国家でしか行われないような一種の思想統制に過ぎないようなところがある、ということなのです。

 ですから、本当は、民主主義国の市民であるならば、ある人が、「この時代の国王は、最高だった」、と言ったとしても、別のある人は、「いや、あいつは、とんでもない馬鹿な奴だった」、と言うことがあったり、また、ある人が、「当時の生活は、文明国としては、最高のものだった」、と言ったとしても、別のある人は、「いや、当時のこの国は、隣の大国の人々から見ると、本当に、へんぴな地方の田舎のような場所だった」、と言うことがあったり、あるいは、ある人が、「この時代の美術品は、本当に最高だった」、と言ったとしても、別のある人は、「そんなもの、ほとんど当時の隣の大国からの輸入品か、模造品みたいなものばかりしかないじゃないか」、などということがあったりしてもよい、などというように、実は、民主主義国の市民というのは、様々な歴史の出来事に対して、みんながみんな教科書に書いてあるような国家の統一した見解を、さぞ当たり前のように話す、とか、みんながみんな口を揃えて、ある物を良いと感心し、また、ある物を悪いと非難するなんてことは、絶対にあってはならないことなのではないか、ということなのです。

 つまり、本当は、民主主義国であるならば、ある歴史の出来事に対して、特に反社会的な内容でもない限りは、別に他の人と違う考え方をしても良いはずだし、また場合によっては、教科書とは全く正反対の主張をしても、本来は、全く構わないはずなのではないか、ということなのです。

 それゆえ、例えば、歴史のある出来事に対しても、「古い話や出来事であるならば、それを本当の出来事として、自分は、受け入れるのか否か?」、とか、「それは、本当に良いことだったのか、そうでなかったのか?」、とか、「最近、流行りのシミュレーションゲームではないのですが、もし、その人物が違った行動をしたら、いったい、どうなったのだろうか?」、とか、「それは、本当に国民全員が讃えるほど価値があるものだったのか否か?」、などというように歴史のある出来事に対して、それを自分自身は、いったい、どう考え、どう評価するのか、というようなことに関しては、本当は、思想・信条の自由の保障された民主主義国の市民であるならば、基本的には、自分の自由な見方や考え方を持ったしても、本当は、全く問題ないはずなのです。

 このように現代の歴史教育では、本来は、一人一人の個人が、かなり自由な立場から、「そんなもの信じられない!」、とか、「こんなこと知りたくない!」、とか、「こんな権威、受け入れたくない!」、とか、「こんな暗記や正解なんて受け入れたくない!」、と考えても良さそうなことをさも絶対的な権威でもあるかのごとく、長時間、授業しては、テストまでして、強制的に押し付けてくるようなところがあるので、これは、本当は、民主主義国の市民の歴史教育としては、非常に問題があるのではないか、ということなのです。

 

5、学問としての歴史の見方としては、近現代ぐらいまでの歴史については、ある程度、はっきりと分かるのだが、本当は、それ以前の500〜600年前以前の歴史の話については、ほぼすべて単なる想像や仮説の寄せ集め程度の話に過ぎないのだ、ということは、あらかじめ、よくよく理解した上で歴史を学ぶ必要がある

 それと私自身の素朴な感想を言うと、今から数百年前ぐらいの、せいぜい、江戸時代か、戦国時代ぐらいまでの歴史であるならば、「まあ、大体、こんなものだったのではないか」、というような推測は、たくさんの物的証拠も揃えて、ある程度、分かるのではないか、と思うのですが、はっきり言って、それ以前の500〜600年前以前の歴史については、年代から登場人物まで含めて、基本的には、すべて、どこかの誰かの考えた単なる推測や仮説に過ぎず、その確かな確証は、ほとんど得られていない、ということと、それから、そうした推測をしたり、仮説を立てている学者の人達というのも、基本的に一般市民が、直接信任したわけでもない、これまた、どこかの学者の人達が、自分達の仲間内だけで選んだ内輪の人選による、どこの誰かも全く分からないような人達である、というような点において、本当は、そうした歴史の話というのは、言ってみれば、かなり信憑性の怪しい、単なる想像や仮説の寄せ集めのようなものに過ぎないようなところがある、ということなのです。

 そうした歴史の実態というものを隠して、さも、そうした歴史が、すべて、本当のことであったかのごとく、説明しようとしてきたり、また、そうした一定の歴史の見方を強要してくるような歴史の授業のあり方というのは、本当は、民主主義国の市民の歴史教育としては、かなり問題があるのではないか、ということです。

 ですから、もう今から、5〜600年前以前の大昔の歴史の話については、せいぜい、「現在の学説では、こんな推測らしい」、とか、「こういう指導者がいたと言われているが、実際のところは、資料の信頼性が低すぎて、本当は、よく分からないところが多い」、とか、「一昔前の歴史の話は、その時代の指導者の権力の正当性を、多くの人々に信じ込ませるための宗教みたいな役割を果たしていたので、そんな古い時代の資料や物的証拠なんて、いつどこの誰が、ねつ造したものとも分からないんだから、適当に割り引いて、考えるくらいの方が正解なのではないか」、などという具合に、基本的には、「そうしたことが、本当にあった」、とか、「これは、絶対に正しい真実の歴史なのだ」、などとは、そう簡単には、鵜呑みにしないのが、民主主義国の市民の大人としての歴史の見方なのではないか、というように、私は率直に考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月16日 9:24 PM, コラム / 人生観、世界観 / 政治 / 教育 / 歴史 / 社会、文化



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