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常に霊的にも物質的にも、また個人としても集団としても、最高にして最善の「幸福主義」的な生き方を志向してゆく Part 4

「気持ちよい」と「痛い」といった人間としての自然な感覚や感情のあり方を逆さまに倒錯させていったり、人間としての自然な幸福感を根こそぎ、何も感じさせなくさせてゆくような「修行」や「訓練」と称する行為に対しては、厳重な警戒と注意が必要である

 要するに、これは人間というのは、何らかの修行や訓練をすることによって、普通の人々とは明らかに違った、かなり特殊な感覚や認識を持つことが可能になるということを意味しているのですが、ただ、こうした特殊な修行や訓練に関しては、私は、それがすべてがすべて悪いとは決して言わないのですが、次のような二つのケースに関しては、それがどんなに素晴らしく魅力のありそうな内容に見えたとしても、原則近づかない、入らないというような、かなり断固とした態度をとった方が賢明なのではないか、というように考えております。

 その二つのケースとは、まず第一には、これは端から見ると、はっきり言って巷のアンダーグラウンドな世界の中の「SMの調教」と呼ばれているものとほとんど違いがないように見受けられるのですが、普通の人が「痛い」とか、「きつい」と感じるようなものを「気持ちいい」とか、「楽しい」などと感じられるようにするための肉体的、精神的トレーニング、つまり感覚や感情の倒錯が目的の「修行」や「訓練」と称する内容に関しては、自分の人間としての普通の感覚や感情を守るために、私は、断固としてやめた方が賢明であるというように考えております。

 第二には、これは、ちょっと端から見ていると、なかなか分かりづらいのですが、最初は、別に「楽しい」とも「面白い」とも思えないような行為であるにも関わらず、何度も繰り返し続けるような一種のトレーニングによって、例えば、「ここに○がつくことは何でもいいことで、バツがついていることは何でも悪いことなんだ」とか、「自分の素直な意見を言うことは悪いことで、偉い人の言われた通りにしているのが、お利口さんなんだ」とか、「自分より弱そうな人に悪口を言ったり、いじめたりすると、とても気持ちいいんだ」とか、「ルールを変えたいとか、文句を言うことはダメなことで、とにかくルールに従ってゆくことがいいことなんだ」などというように、よくよく冷静に考え直してみると、「自分としては、何も楽しいとも嬉しいとも感じていないのに、なぜ自分は、こんなこと楽しいと思うようになったのかな?」とか、「なんで自分は、こんなに強いストレスを感じ続けているのに、それが普通の平気なことみたいに感じるようになったのかな?」というような内容を押し付けてくるようなところに関しては、本当はかなり用心して、適切な距離をとって付き合うのが賢明なのではないか、ということなのです。

 

人間としての自然な感覚や感情を取り戻すためのトレーニングや、これまで以上に人間としての自然な感覚や感情を取り戻し、強い幸福感を感じられるようにするためのトレーニングは、基本的に全く問題ないと言える

 それでは、そうした特殊な修行や訓練であっても良いものがあるとしたら、いったいどのようなものなのかというと、これは少し説明が難しいのですが、大体、簡単に要点だけ説明すると、以下のような二つの内容になるのではないかと思われます。

 まず第一には、これは先ほどの修行や訓練とは、基本的に全く正反対の立場になるのですが、そうした宗教や学校教育によって失われた人間としての自然な感覚や感情を取り戻すためのトレーニングのようなものがあるのであれば、それは非人間的な存在から、再び人間的な存在に戻るために、ぜひともやった方がよいトレーニングであるということが言えるでしょう。

 第二には、これはよくよく冷静に考え直してみれば、全く当然のことなのではないかと思われる内容になってくるのですが、もし人間として生きる上で、それまで以上に自然な感覚や感情が研ぎ澄まされてゆき、また、それまで以上に強い幸福感が感じられるような修行や訓練のようなものがあるのであれば、これも基本的には全く問題ないのではないかということになります。

 つまり、これは数学的な向きや大きさを表す「ベクトル」の説明で言うと、単純に上向きを幸福、下向きを不幸として考えてみると、先ほどのよくないケースの場合には、本当は肉体的、精神的に下向きの不幸の方向にベクトルが向かっているにも関わらず、何らかの異常な訓練によって、あたかもそれが上向きの幸福の方向のベクトルであるかのごとく錯覚させられていったり、あるいはその反対に、本当は肉体的、精神的に上向きの幸福の方向にベクトルが向かっているにも関わらず、何らかの異常な訓練によって、あたかもそれが下向きの不幸の不幸の方向のベクトルであるかのごとく錯覚させられてゆくような、要するに幸福の感覚と不幸の感覚をそっくりそのまま入れ替えられてしまうような要素が、そうした問題のある修行や訓練にはあったということなのです。

 それが今述べたような、ある程度良いと思われるケースの場合には、基本的に上向きの幸福の方向へのベクトルと、下向きの不幸の方向へのベクトルは、できるだけそのまま維持するようにするとか、あるいは、何らかの異常な体験によって、感覚的、感情的に真っ逆さまにされていた場合には、普通の人間としての感覚や感情に戻すようにするというような方向なので、基本的な人間の感覚や感情として合っているので良いのではないか、ということなのです。

 このように多くの人々の幸福へのアプローチとしては、大体、以上のような四つのことをあげることができるのではないかと思います。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月6日 9:33 PM, 人生観、世界観



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