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愛や創造性を生命原理とする「光の生命群」と、破壊や略奪を生命原理とする「闇の生命群」との葛藤と対立

 今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。

 

愛や創造性を生命原理とする「光の生命群」と、破壊や略奪を生命原理とする「闇の生命群」との葛藤と対立

 それは、一体、どのような違いなのか、というと、まずは、先ほど述べたような「光の世界の幸福感」に基づいて、基本的に、他の人々や生き物達の存在や行動というものには、あまり関わりなく、自分自身の自由意思に基づいて、何らかの創造行為を行ったり、あるいは、他の周りの人々や生き物達に対して、何らかの奉仕のような活動をするだけで、とても充実感や幸福感を感じることができる、というような人間や生き物のあり方と、そうではなく、「暗闇の世界の幸福感」に基づいて、常に自分の周りの他の人々や他の生き物達の存在や行動というものを前提として、それらを傷付けたり、あるいは、何かを奪い取るようなことをしていないと、自分自身の存在感や満足感というものを、一切、感じられない、というような人間や生き物のあり方である、ということなのですが、これは、今述べたような、霊的、あるいは、高次元的な認識としては、一体、どのように見えるようになるのかというと、前者が、基本的に、自分自身の生命活動のみに基づいて、光り輝き、また、他の生命に対しても、光を与えるような生命存在であるのに対して、後者は、基本的に、常に真っ暗で飢え渇いたような精神状態であるので、その結果、自分自身の生命活動のみによって、自分の生命力を維持するというよりかは、とにもかくにも、周りにある光ってそうな生命存在を見つけると、片っ端から傷付けたり、あるいは、片っ端から、それを食べて、自分自身の中に取り込むようなことをしてゆかないと、本当に、一刻たりとも、自分の生命活動を維持することができない、というような生命存在になってしまう、ということなのです。

 つまり、その生命存在の精神的な状態、心のあり方によって、一方は、基本的に、自立した、しかも、他の生命に対して、常々、親切にして、与えるような生命存在のあり方になるのに対して、その反対に、一方は、基本的に、一つの生命としては、全く自立することができずに、常に常に、他の生命に対して、破壊的、あるいは、搾取的な活動をしようとするような生命存在のあり方になってしまう、ということを、これは意味しているのです。

 ところが、この結果というものが、非常に怖くて、それは、一体、何であるのか、というと、そうすると、私達の活動しているような物質世界でこそ、こうした、それぞれの立場の生命存在というのは、ほとんど同じような種類の生命として、いちおう、認識されるのですが、そうではなく、これが、霊的世界や多次元世界になると、一方は、そうした霊的世界や多次元世界の中でも、そうした精神活動の結果、比較的高い、高次元の光の世界に行くことができれば、そこで十分な至福の感覚や充実感というものを感じることができるので、そこを永遠の自分の魂の住処のように考えて、満足することができるようになるのですが、それに対して、一方は、そうした精神活動の結果、霊的世界や他次元世界の中では、比較的低い、低次元の暗闇の世界でしか、基本的に、活動できないにも関わらず、彼らが、何らかの満足感や充足感を得ようとすると、どうしても必然的に、高次元の光の世界に住んでいるような多くの生命達を傷付けたり、あるいは、苦しめたりすることが必要になってくる、ということなのです。

 それゆえ、これは、そうした高次元の光の世界に住んでいる多くの生命達にとっては、非常に迷惑な話であるとしか言いようがないのですが、そうした低次元の領域に住んでいる生命達というのは、彼ら自身として、何らかの努力や自己変革を行って、高次元世界に住んでいるような、自分の活動だけでも、非常に満足した幸福の塊のような生命になるというような努力や自己変革は、なぜか、全くせずに、そうはなく、彼ら自身の飢え渇くような飢渇感や欲求の結果として、常に何らかの手段でもって、そうした高次元の光の生命達に縁を付けては、彼らを傷付けたり、苦しめたりしようとするばかりか、そうした高次元の光の生命達を、次々と、彼らのいるような低次元の暗闇の領域に引き込んだり、閉じ込めようとするような邪な、はかりごとを企ててこようとしてくることが、非常に多かった、ということなのです。

 つまり、常に創造性や愛の立場に立つような「光の世界の幸福感」と、常に破壊や略奪の立場に立つような「暗闇の世界の幸福感」の違いというような、この宇宙における代表的な二つの幸福感に対する立場の違いによって、この宇宙には、結果として、その存在様式としても、また、生命形式としても、全く異なる二つの存在や生命のあり方が出てくることになる、ということなのです。

 それが、まず第一の魂群というか、生命群のような、常に創造的で愛の観点に立つような存在や生命のあり方、つまり、常に、どちらかというと、高次元の光の世界における生命のあり方を志向し、その上、生命の姿形や動作としても、非常に上品で美しく、また、基本的に、調和や平和的共存を志向し、その生命自身の活動によって、十分な幸福感や充足感を得ることができるような魂群というか、生命群であるのに対して、その反対に、第二の魂群というか、生命群というのは、常に破壊や欲望の観点に立つような存在や生命のあり方、つまり、常に、どちらかというと、低次元の暗闇の世界における生命のあり方を志向し、その上、生命の姿形や動作としても、非常に下品で醜く、また、基本的に、闘争や奪い合いのカオス的な世界を志向し、そして、その生命自体の活動というよりかは、どちらかというと、常に他の生命を殺して、傷付けたり、あるいは、常に何かを奪ったり、他の生命の肉を食べたりしていないと、自分自身の生命を全く維持できない、というような魂群や生命群である、ということなのです。

 これが、今日、地球上では、どこにでも見られるような自然の生態系における生物の違い、つまり、植物と動物の違いであるとか、草食動物と肉食動物の違いというものが、はっきりと現れるようになった大きな理由の一つである、ということなのですが、要は、ここで問題なのは、こうした、この宇宙における代表的な二つの幸福感による立場の違いに基づく限り、こうした自然の変化の成り行き、あるいは、人間社会の進歩の結論としては、常に、それ自体として自立し、最高の幸福や繁栄を求めようとするような「光の生命群の一派」と、その反対に、それ自体としては、全く自立することができずに、常に他の生命を殺したり、あるいは、他の生命から、何かを奪うことによってしか、自らの生命を維持することができないような、言わば「寄生型」や「略奪型」と言ってもよいような、常に侵略や略奪によって、自分達の最高の幸福や繁栄を求めようとするような「闇の生命群の一派」に、この宇宙の生命群というのは、常に大きく分離してゆくような傾向があった、ということなのです。

※別に、植物や草食動物が、光の生命群で、動物や肉食動物が、闇の生命群であるというわけではないのですが、ただ、「低次元宇宙」とも呼ばれる、この物質世界においては、基本的に、ここで述べているような形の、愛や調和を基調とした生命群と、その反対に、破壊や略奪を基調とした生命群の、二種類の生命群のタイプに、どうしても、分かれてゆきがちであった、ということです。

 ちなみに、現在、進行中のアセンションによって、そう遠くない将来、アセンションした側の世界では、現在、肉食動物として知られている生き物達の大部分が、だんだん、肉食ではない、別の種類の生態に大変化してゆくと思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月20日 9:03 PM, アセンション・シリーズ 4 / 自然、生命



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