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政治家は、その地域の顔であると共に、その地域という総合企業の経営者のような存在であるので、その地域の人々は、選挙の時だけでなく、末永く、その政治家をサポートしてゆくことが、とても大切である Part 5

③その政治家が、政治家になって以降、「自分は、一般市民より明らかに上だ」、というような先生気取りの態度を取り始めた場合には、地域の人々は、きっちりと、その人を諌めて、たくさんの普通の一般市民の代表としての政治家の原点を、しっかりと再確認してもらう必要がある

 第三には、これも、日本では、非常に誤解されやすい内容になるのですが、もし、選挙で選ばれた政治家が、その後、先生気取りで、いろいろな贅沢や接待を楽しんでばかりいたり、あるいは、いつまで経っても、口先だけで、何も重要な仕事をやろうとしない場合には、できるだけ、大勢の人々で、圧力をかけて、政治家としての原点、つまり、自分は、単に人より偉くなるために政治家になったのではなくて、その地域における多くの人々の意見や利益を反映した、より良い政治を実現し、そして、その地域を、より豊かで幸福な社会にするために、政治家になったのだ、ということを、しっかりと再確認してもらう必要がある、ということです。

 これも、多分、現代の日本の教育制度の弊害であるとしか、私には、全く言いようがないのですが、とにもかくにも、この国の学校では、自分が上の立場か、下の立場か、ということを、毎日毎日、嫌というほど、体に叩き込まれるようなところがあるので、その結果、自分が、少しでも人より上の立場になったかと思うと、途端に、それまでの態度とは、全く違った、いわゆる、先生気取りの精神状態や生活を満喫しないと、気が済まなくなってくるような人達が、本当に多いようなのです(長い間、ずっと、いろいろな人達から、「お前は、下の人間だ」、とか、「あれをやれ、これをやれ」、などと、いろいろ、こき使われていたから、ある意味で、当然の結果だとは思うのですが・・・)。

 ところが、これが、特に政治家の場合、大きな問題があって、それというのは、普通の一般市民の立場としては、たくさんの普通の一般市民の代表として、その政治家を選んだにも関わらず、その政治家が当選した時点以降、その政治家本人が、「自分は、普通の一般市民よりも、一段、上の存在なのだ」、などと考えるようになってしまったとしたら、それでは、その時点で、その人は、もはや、たくさんの普通の一般市民の代表とは、言えなくなってしまう、ということなのです。  ですから、私は、日本が、現在以上に、もう少しまともな民主主義国に成熟してゆくためには、現在のように、政治家のことを、「先生」、「先生」、などと祭り上げるのは止めて、せいぜい、「○○さん」、とか、「○○ちゃん」、みたいな感じで、もう少し、信頼と親しみを込めて、政治家であっても、できるだけ、普通の一般市民と同じような感覚を持てるような呼び方にするのが、賢明なのではないか、というように、率直に感じております。

 このように、もし、その地域で当選した政治家が、以後、だんだん先生気取りで、周りの人を、少し蔑むような態度に出るようになったり、あるいは、人間として、あるいは、仕事上、当たり前のことを軽視するような行動をとるようになってきた場合には、その地域の人々は、なるべく大勢の人数で集まって、本人に会って、きっちりと諌めるか、それでも改めない場合には、「次には、もうあなたには、投票しない」、と言って、かなり強硬な態度で圧力をかけることが、非常に重要なのではないか、というように、私は考えております。

 

※ちなみに、日本だと、すぐに、誰でも、「先生」、「先生」、と呼ぶような、西洋の人から見ると、かなり不思議な習慣があるのですが、私は、もう本当に、その道を、「名人」と言ってもよいほど、深く極めた、とか、もうそのことに関しては、ものすごい知識の造詣がある、とか、世界の人が驚くような、ものすごい実績を上げた、というような、よほどの特別な人でもない限りは、基本的に、「先生」と呼ぶ必要は、全くないのではないか、と考えております。

 つまり、その辺の普通の学校の教師ぐらいの人であるならば、基本的に、「先生」、「先生」、と呼ぶような必要性は、本来、全くない、ということを、これは意味しているのですが、実際、私の知る限り、先生と生徒、とか、王様と平民みたいな人間の上下の感覚が、強ければ強いほど、幸福感が少なくなってゆき(あっても、多分、ほとんど錯覚じゃないかな・・・)、その反対に、そうした人間の上下の感覚が少なく、多くの人々の間で、友達のような感覚が強ければ強いほど、はた目で見ている限り、みんなが、とても楽しく、幸福感が強い人間関係を築けるように感じられるので、そうした人間の幸福という観点から見た場合には、できるだけ、社会的な上下の感覚が、少なければ少ないほど、より幸福な社会になってゆくように感じております。

 ちなみに、霊的には、人間や生き物との間の上下の感覚が強い人であればあるほど、より下の低次元の世界に引きつけられるようになり、その反対に、人間や生き物との間の上下の感覚が少ない人であればあるほど、より高次元の光の世界に上がってゆくような傾向があるようです。  ただ、あまりに、ぶしつけな性格、というか、傲慢な人は、基本的に、そうした高次元の世界には、一切、いない、ということは、念のため、付け加えておきます。

 

一般市民は、選挙の時だけでなく、その地域で選んだ政治家が、地域の代表や、地域という総合企業の経営者としての役割を疎んじて、党や政府の言いなりになっていないかどうか、公約に基づく仕事を、テキパキを片付けているかどうか、先生気取りで、一般市民の意見を疎んじていないかどうか、ということを、一定期間ごとに、常に厳しくチェックし続ける必要がある

 このように、地域で選ばれた政治家のその後の動向に関しては、以上のような三つの点については、その後も、放ったらかしにせず、一定期間ごとに、まるで、自分達が、採点者になったようなつもりで、厳しくチェックするようにしておかないと、たとえ、民主主義であっても、いつの間にか、常に政治が、荒れた状態になって、ほとんど機能せずに、どこの誰ともよく分からないような、一握りの人々によって、隠れた政治支配を受けるようになる、とか、いつまで経っても、やるべきことを、全くやらない、能無し集団に牛耳られるような政治状況が、だらだらと続いてゆく可能性があるので、こうしたことには、民主主義国の市民としては、非常に注意する必要がある、ということが言えるでしょう。

 

 

 ここで、いったん、政治の話は、おしまいです。アイデアは、あるので、また,突然、続きが始まると思います。

 

  と書いたのですが、実は、この文章の途中で、脱線して書き始めた内容があったので、明日も続きがありました。

 内容は、今後の日本の衰退を避けるには、現在のような議員内閣制の政治システムではなくて、アメリカや韓国のような大統領制の政治システムへの変更が、将来的には、絶対に必要になるだろう、というような話です。

 

 それでは、お楽しみに!(興味のある方は、どうぞ!)

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月5日 6:02 PM, 政治



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