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自由に生きる幸福と、従順に生きる幸福のバランスの大切さについて Part 1

 今回は、「自由」と「従順さ」というような、少し変わった内容について、考えてみたいと思います。

 

自由のもたらす幸福と不幸

 まず最初に、自由について、考えてみたいのですが、とにもかくにも言えることは、この世界において、「自由」という概念は、限りなく重要、かつ、人間に素晴らしい幸福をもたらすものである、ということです。

 たとえば、身近な例をあげると、自分の嫌いな服を、無理やり着させられるよりも、自分の好きな服を、自由に選んで着れることの方が、ずっと楽しいですし、また、これと同様に、自分の嫌いなことを、強制的にやらされるよりも、自分の好きなことを、自由に選んで、できることの方が、ずっと楽しい、ということが言えるのではないか、と私は思うのですが、ところが、実際の人間生活を見てみると、なぜか私達は、誰も強制したわけでもないのに、いつも同じような、大して楽しいとも、ワクワクするとも思えないような行動を繰り返し選んでしまうことが多かったり、あるいは、誰から頼まれたわけでもないのに、いつの間にか、よく考えてみると、自分でも不快であると感じているような、汚い、面倒くさい、ややこしい変な行動の習慣というものを、日常的に持ち続けてしまうような、非常に変な性質があるのではないか、ということなのです。

 このように、人間にとって、自由というのは、非常に素晴らしい幸福をもたらす反面、なぜか人間というのは、こうした自由によって、みすみす自分自身を日常的に不幸に陥れてゆくような、非常に矛盾した性質を持っているところがある、ということなのです。

 

人間というのは、意外と、従順さの中にも、幸福を感じる生き物である

 次には、「従順さ」ということについて、考えてみたいと思うのですが、これは、世間一般で、よく言われていることとは、一見、かなり矛盾するような内容になってくるのですが、私が、多くの人々を身近に観察した結果、人間というのは、自由も大好きだけれど、それとほとんど同じくらい、一見、不自由と捉えられるような「従順さ」、つまり、もっとはっきり言うと、他人に依存したり、服従したりするのも、結構、大好きなのではないか、というような率直な感想を持っている、ということなのです。

 これは、つい最近までの日本人には、よくありがちの風景、たとえば、自分の夫には、非常に従順な妻が、なぜか自分の子供には、まるで専制君主のように、怒鳴り散らしては、何でも強制的に、自分の言う通りにさせようとするような日常の風景であるとか、あるいは、世間では、一見、誰の言うことも全く聞かないようなワンマン社長として知られているような人が、家に帰ると、奥さんや子供の、何でも言いなりオヤジだったりするような日常の風景というのが、世間では、意外と多い、ということとも、非常に関係あるのですが、この世界を見てみると、人間というのは、他の人に対して、非常に素直で従順であることを、強く欲求するような人に限って、意外と、裏では、他の人の指示や命令に、非常に素直に従順に従うようなことを喜んで行うようなところがある、というような、非常に変わった性質がある、ということなのです。

 このように、人間社会を見てみると、意外と、人間というのは、自由を最高の幸福と感じることもあれば、その反対に、誰かに依存したり、服従したりするような「従順さ」というのも、結構、幸福であると感じるようなところがある、ということなのです。

 それでは、それは、一体、なぜなのか、というと、まず第一には、人間というのは、なぜか自分一人だけの判断であると、いつの間にか、いつもいつも同じようなマンネリ化した判断ばかり繰り返そうとするような妙な性質があるので、その点、他の人からの指示や命令というのは、自分にとって、非常に新鮮な面白い体験や成長の機会を与えてくれることがある、ということと、第二には、これは、表向きの建前ではなく、人間の本音レベルの心の声に、自分の耳を傾けてみないと、絶対に分からないような内容なのですが、私が見る限り、人間というのは、意外と、他の人の要求に従順に従う、つまり、言葉を変えると、自分の都合よりも、他の人のために尽くすようなことが、心底、大好きなところがある、ということと、それから、第三には、これも、人間の本音レベルの心の声に耳を傾けてみないと、絶対に分からないような内容になるのですが、実は、人間の心の奥底には、自分のためでなく、何か崇高なもの、たとえば、「神や仏のため」、とか、「人類や世界のため」、といった、何か偉大なもののために、自分の一身を捧げてみたい、とか、奉仕してみたい、というような、非常に強い潜在欲求というのが、これは、おそらく、人間であれば、誰にでも、心の深い所にあるからなのではないか、というように、私は率直に感じております。

 このような理由によって、人間というのは、自分が、自由に行動できることも、非常に幸福に感じることができるけれども、それと同じくらい、ある意味で、自分の自由を放棄して、他の人の指示や命令に素直に従う、つまり、従順であることも、非常に幸福である、と感じるような性質がある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 欧米だと、政治的には、自由、ところが、結構、宗教的には、従順さを要求することが多かったり、また、日本だと、自由主義国家と言いながら、結構、学校でも社会でも、従順さを要求することが多かったりするので、こうした「自由のもたらす幸福」と、それから、「従順さのもたらす幸福」というのは、本当は、多くの人が、もう少し理性的に、自分の頭で理解しながら、行動しているくらいの方が、社会として、より健全になるのではないか、ということです。

 つまり、これも、多くの人の意識が、いまだ分裂したまま、うまく統合されていない内容の一つだと言うことです。

 まだ、私が、こうしたブログというものに、よく慣れていないことと、それから、現在、霊的なミッションの方が、結構、大変になっていて、そちらの方に、自分のエネルギーが、大量に消耗されてしまうために、文章が書けたり、書けなくなったりして、定期的な更新が、かなり難しい状況なので、時々、パタッと、記事のアップが止まってしまうかもしれませんが、その辺りは、あらかじめ、ご了承の方、よろしくお願い致します。

 

Cecye(セスィエ)

2010年8月22日 5:38 PM, おすすめ記事 / 人生観、世界観 / 政治



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